011.剃刀











銀の刃を横に引くと鮮やかな赤い線が走る。





じわりと色を濃くする傷口を見て、鈍い痛みを感じる。剃刀の刃を持ったままの手で、ユーリは滲んだ手首の傷口にそっと指を這わせる。赤い色が白い肌に広がる。

何をしたかったのだろうか。

白く、朝日に満ちた洗面所。傷口と指に付着した赤だけが、いやに鮮明で、見つめる。それは確かに赤い。誰とも違わない、誰とも同じ色だ。分かりきっている。
指を唇に近づけて舌でねぶる。鉄さびの味が口内に広がる。血の味に他ならない。いくら人ではないと言えど、体の構造は人と驚くほど同じであり、違いは少ない。違いを上げたほうが早いくらいだ。本当に、本当に少ない。両の手で十分に事足りる。
指を口から離すと僅かに糸を引いた。口内に沸いた唾液がいつもよりねばついているような気がした。

飢えているのか。

再び、手首の傷に視線を戻す。数分も経ってはいないのに、血は乾いて変色していた。それに、舌を這わせてみる。感じる味は間違いなく血のもの。けれど、やはり、己の血は酷く苦く不味い。
「……っふ」
嘲笑が零れた。唇を手首から離す。途端、光に目を射抜かれる。窓から入り込んでいた陽光に手首が唾液でぬめって光る。その中に、先刻つけた細い傷はない。跡形もなく消えていた。少しも残ってはいない。
チカチカと光が揺れて目を指す。腕を力なく垂らす。光が溢れている中、窓を睨み上げるようにして、洗面所の中が痛いほど白く明るくなっているのを知る。真昼の太陽はどこまでも無遠慮に入り込んでいる。半眼で睨みつける。ユーリの手には血が付いたままの剃刀の刃がしっかりと握られている。

「ユーリ?」

聞き慣れた、呼び覚ます声が背後からかけられる。

「…何してんスか?」

反応の返ってこないことを不思議に思ったのだろう、気配が近づく。背を向けたままのユーリの顔を見ようとして、先に気づく。彼の手にある剃刀の刃。付着した赤。

「っ、切ったんですか?」

驚いた声を出し、ユーリの両手を取って確かめるように見る。そして、唾液で濡れたままの手首に触れ、更に驚いて瞬く。ユーリは舌を向いて無表情で呟く。

「切った。が、……もう治ったよ」

嘆息ともとれる息を吐き出して、呆れたような声音。アッシュは眉間に皺を寄せる。

「手首を?」
「ああ」

常と変わらない返事の仕様にアッシュの声は低く重くなる。威嚇する獣のような響く低さだ。

「故意に、やったんですか?」
「ああ」

即答に表情を険しくする。ユーリがたとえその顔を見ていないとしても、それは容易に想像できた。あまりにも簡単に。
アッシュはユーリの両手を持ったまま、しばし沈黙して、やがて、怒気を含めた声で、

「……それ、渡して下さい」

彼の視線の先に手を差し出す。大きな褐色の手。それがユーリに手の中にあるものを渡せと要求している。もう片方はまだ握られたままだ。ユーリは差し出されている大きな手をじっと見つめる。その手が温かく優しいことは幾度も触れて知っている。
剃刀を差し出す。微動だにしないアッシュの掌に切っ先をゆっくりと近づける。刃を肌に触れさせて、それは、ほんの刹那。素早く腕を横に引いた。

「っ!」

驚きと痛みの声が零れる。ユーリの手を離して咄嗟に手を押さえ、アッシュが怪訝な顔を向ける。その一瞬前に、ユーリは己の血とアッシュの血が付いた剃刀の刃を投げ出し、そして、アッシュの手を両手で包み込むように持つ。アッシュの視線が向けられる頃には、彼の手はユーリの赤い舌で舐られていた。アッシュが動揺を声に顔に出していることなどまるで無視して、ユーリは血を流している指に舌を這わせる事に専念する。指ごと口に含んでしまえば、アッシュは驚いて体をぴくりはねる。顕著な反応に微笑む。舌を強く傷口に押し当てる。温かな血が口内に満ちていく。すぐに飲み干す事をしないで、ゆっくりと味わう。そうして、咽に落ちる。声と吐息が零れた。
鉄臭いはずの血が甘いように感じられ、陶酔する意識はもっともっとと求めて再び舌を這わす。けれど。
唇を離し、惜しむかのように舌で一撫でする。目を離せずに直視していたアッシュを、ユーリは無表情に見上げる。一瞬、強張った表情をしたアッシュに無表情のまま呟く。

「…治りが早いな」

言葉にはっとした様子で、アッシュはユーリが掴んだままの手を見て、彼の唾液で濡れている指、傷を見やって、確かに傷が塞がっているのを知る。それから、本当に僅かな苦笑を浮かべた。

「明日、満月ですから…」
「…ああ、知っている」

答えて、ようやくユーリは微笑する。そして、手を離す。アッシュの手を離し、一歩後ろへ下がる。距離をあけて笑みを濃くする。アッシュの赤い目を、隠されている目をしっかりと見つめながら、

「なぁ、アッシュ。私は屍の上に立っているんだ」

聞きうけた彼の目が見開かれる。ユーリは更に美しく笑む。
「血にまみれて人を殺した。嘘などではない。紛れもない事実だ」
声は嬉々とした調子を含んでいる。アッシュは困惑と緊張を瞳に乗せる。この先、ユーリが言おうとしていることを、もしかしたら予想して恐怖していたのかもしれない。
「お前は人を傷つけることを嫌うだろう?」
訊ねるように首を傾げる。銀の髪が日の光を受けて淡く透ける。

「それでも、私の手を取ることが出来るか?」

困惑の瞳に、掌を差し出す。白く細い手をアッシュへ差し伸べる。先刻とは全く逆の状況に自然と笑みが浮かぶ。ユーリは笑むことを止めない。
自身が伸べた手の長い爪。塗られた赤い色が目に付く。ただのマニキュアに過ぎないが、笑みの下でユーリは、まるで、咎人の証のように感じた。穢れたこの手を、清らかなものを好むアッシュに、取ることが出来るのだろうか。何よりも闇の性を嫌悪する彼に。
躊躇をしているのか、逡巡しているのか、ユーリの白い手を見つめ続けるアッシュを、同じように見つめる。
彼が私の手を取ることを望んでいるのか。
それとも振り払うことを望んでいるのか。
どちらなのだろう。思いは先刻と変わらない。剃刀で己の指を切ったことに本当は意味などなかったはずだ。ただの発作的な衝動であり、その行動に理由などはありはしなかった。けれど、もし、それがあったのだとしたら、きっと、それは。
間合いを詰め、両手で渾身の力でもってしてアッシュを突き飛ばす。突然の動作に戸惑う余裕すら与えられず、アッシュは壁に衝突して息を詰める。背中を打ち付けてしまったのだろう。うめき声を上げてずるずると床へ落ちた。はっ、と息を短く吐く音がやけに苦しそうだった。
ユーリはゆっくりと瞬いて、その光景を見つめる。無表情で静かに見下ろす。そんな彼にかけられる声。呼ばれる名前。

「…ユーリ……」

苦しげな息で、名前を呼ばれ、赤い目がこちらを見つめる。居ても立っても居られず、ユーリはアッシュの視線を振り切ってドアに向かう。平静を保つように精一杯の努力をして、冷徹を感じさせる表情をわざと作って、彼を残し、部屋を後にする。ドアを後ろ手に閉め、長い廊下を足早に通っていく。
窓から差し込む日の光に視界が滲む。息が乱れる。頭の中が白くなり、何も考えられなくなる。そこに浮かぶたった一つの色彩。彼の赤い瞳。
いつまでも続く長い廊下を歩き続けながら、ユーリは一度も振り返らなかった。目を背けるように、逃げるように、決して振り返らなかった。








彼が私の手を取ること、振り払うこと、どちらも望まない。

なぜなら、私はどちらでも酷く傷つき、彼の選択は私に鋭い傷を遺すと知っていたから。




















 fin.









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