018.憂鬱











 零れ落ちる。
 そうして、ようやく私は気づくのだ。










 晴天が続いている。
 気温も程好い。
 仕事は適度に入っている。
 今日はオフ。休日だ。それもメンバー全員。

 起床はいつもより早く、目覚めも良かった。いつもの不快な寝起きが嘘のように、すっと目覚めた。水面上に気泡が浮かび上がる。風が下から上へ心地よく吹き上げる。そのような爽やかな目覚めだった。いつものような睡眠による倦怠感もなかった。寝ていたことを思わせないほど、体も意識も軽やかに目覚めを迎えた。
 寝台から起き上がり、窓から吹き込んだ柔らかな風に目を細める。気持ちが良い。風にカーテンが揺れたので、視線をそちらへ向ければ、ふわりと膨らむカーテンに向かう見慣れた姿を捉える。その視界はいつになくクリアだ。アッシュが窓を開け放して、薄手のレースのカーテンを引いている。しゃらりと音がする。光が差し込む。朝日と呼ぶには遅すぎるだろうか、白い光に包まれたその姿を、いつものぼやけた視界や鈍い意識の中ではなく、染み渡るようなはっきりとした気持ちで見つめる。  視線に気づき、振り返ったアッシュは一瞬だけ目を丸くして、笑う。
「おはようございます」
 言って付け加える。やけに早起きですね。今日は雨が降るかな。天気予報では晴れなんスけど。苦笑して近づいてくる。聞きうけながら、ため息を吐いて零す。
 馬鹿者。
 言っている間に伸びてくる手、上向いて見つめる先、前髪を掻き揚げられて額にキスを落とされる。自然と目を閉じて受け入れた。触れた唇の感触が少しばかりこそばゆい。ほんの僅かで離れていく、彼の唇と掌。離れた先で目が合う。いつもとは違う行動。何の意図があるのだろうかと思い、問う。そうすれば、アッシュは少しだけ照れて、笑って、
「早起きのご褒美っスよ」
 少しばかり頬を赤らめて言う。後から照れる。自分で自分の行動を少し歯がゆく思う。その姿が嫌いではない。むしろ好いているので再度、静かに零す。
 馬鹿者。
 己の頬まで赤らんでしまう。








「ねぇねぇ」
 朝食の席に着いた途端に絡んでくる腕。細い骨ばった腕が首に回されて後ろから頭を抱きしめられる。髪に頬擦りされる。うふふと笑う声が耳の傍で聞える。いつもなら鬱陶しくて敵わないので振り払う。けれど、今日はいつものような寝起きの不快がないので、むしろ気分は良いので気まぐれにそのままにしておく。
「ねぇねぇ、聞いて聞いて」
 楽しそうに笑いながら零す言葉を受け止め、長く細い指が机上のティーポットを指すのを見る。透明なガラスのポット。つるりと丸い形をしている。初めて見る物だ。注ぎ口から湯気を立ち上らせながら水滴を多く付けたポットの、その中身は鮮やかな琥珀色をしている。綺麗な紅茶の色だ。
「僕がねぇ、買って来たの」
 そうか。
 答えれば、耳を擽る声。初めは煩わしいとさえ思っていた、スマイルの笑い声。今は柔らかく鼓膜を振るわせる。
「両方とも。だよ?」
 つまり、ポットと紅茶を買って来た。と、そう言いたいのか。知って、されど答える言葉は変わりようがないので、同じ返答をする。そうしたら、ぎゅっと強く抱きつかれた。スマイルは頷く。うん。
「君も気に入ると思ってさ」
 優しげに呟かれて、同じ返事をして、一呼吸置いて、ありがとう。謝辞を言った。その言葉。自身で言った言葉、それが信じられない。いつもならそう思うのだろう。謝辞を述べる。そういうことをあまりしないので、いつもならそう思うのだろう。けれど、今日は気分が良いのでそれすらも思わない。
「良かった。ぅふふっ、アッシュも気に入ってくれたんだよ」
 次いで囁かれた言葉に、また同じ言葉を返す。
 スマイルの笑い声が耳に心地よい。








 リビングの端、窓の傍、木が陰影を作るそこにロッキングチェアがある。いつもと同じ所定の位置に今日も変わらず置いてある。深く座り込んでいる。背もたれに完全に体を預けている。片手にはいつものように文庫本。革のブックカバーをしている。もう片手は頬杖に使用中。肘置きに肘を立て顔を乗せている。窓の外を見る。庭の木陰と青い空。それが見える。目を閉じた。



 晴天が続いている。
 気温も程好く、風も心地よい。
 包み込む空気は柔らかく、温かな思いが満ちている。
 それが、もう随分と前から続いている。
 当たり前のように続いている。
 だから私は。



 零れ落ちる。
 そうして、ようやく気づくのだろう。

 空気は温かで光に満ち、
 繰り返す穏やかな日々が幸せだったということを。



 かけがえのないものが掌から零れ落ちる。
 そうして、ようやく私は気づくのだ。

 その大切さに。









「ユーリ、寝てるんスか?」
 触れてきた温かい手。ゆっくりと顔にかかる前髪を耳にかける。額を露にして、静かで僅かな沈黙の後、今朝と同じように額へキスを落とす。
 落とされる熱。残される熱。それもいつかは失うのだろう。
 空はこんなにも高く青いのに、木陰の陰影のようにちらつく考えはいつまでも消えない。瞼の裏でいつまでも揺れている。

「おやすみなさい」










 そらはこんなにもたかくあおいのに。




















 fin.









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