031.向日葵











些細なことだった。取るに足らない些細なこと。
例えば、昨日通った家の塀にあった萎れた向日葵が、今日になったらなくなってたとか。雨が降ってて風があるのに蒸し暑いとか。作曲がちょっと上手くいかなくて強引に書き上げたらやり直しになったとか。今度のライブが結構大変だってこととか。アッシュと少し口論になって夕飯がカレーじゃなかったとか。
そういう瑣末なこと。
どれが原因でもないし、でも、全てが要因であるような、そんな感じの茫洋としたこと。それが胸の中にある。ずくずくした痛みを持っている。それは、紙で手を切ったりしたのと同じで、気付かなければ全然痛くはないし、気付いても骨折ほどの痛みは無い。大したことなどないものだ。
それなのに。



自室の椅子の上。狭いスペースで三角座りをして、スマイルは膝に顔を埋めていた。向かい合う机の上に置かれた、レトロな部屋に似合わないパソコンは、暗い室内で眩しいほどの光を発して真っ白な画面を晒している。読み込み中を示すゲージが亀の歩みで進行していた。
本当に些細なことだった。
いつもと変わらない。
そんなことは分かっていたけれど、それでも、うずくまる。
なんでこんなにも痛いんだろう。
訳が分からなかった。いや、本当は分かっていたけれど、それも些細なことの積み重ねで、どれも原因ではなかった。たかが擦り傷が、やけに痛かった。
目を瞑った暗闇の中で、静かにため息を漏らす。瞼を閉じていても、涙が滲む。それを感じた。室内で聞こえるのは空調の音だけで、先刻まで五月蝿かった雨音も今は聞こえない。止んだのだろうか。ぼんやりとした意識の端で思う。
椅子の上、スマイルは小さくなりながら思う。
もう少しくらい音を立てて降っていてくれれば嗚咽を漏らして泣くことくらいは出来たのに、こんなに静かじゃそれも出来ないじゃないか。
耳のいい犬を思い出す。
がちゃり。突然ドアの開く音がしたので、咄嗟にスマイルは体をびくりとさせて顔を上げる。が、それを少し後悔した。もし、今顔を見られたら泣き出しそうになっていることを知られてしまう。誤魔化すことは出来ても、やはり、そんなものを見せたくはなかった。
けれど、スマイルの予想に反して、ドアは少しだけ開けられたままそこから動かない。頭一つ分が通るかどうか程の間から、廊下の光が零れた。橙色の蝋燭の光。床に伸びたそれに影が揺れる。小さな影。
「だぁれ?」
出来るだけ陽気な声を出して聞いた。誰が訪ねてきたのかがすぐに分かってしまったから。
かけられた声に影の持ち主は躊躇いがちに顔を覗かせて、
「ポエット」
そう答えて少しだけ微笑んだ。スマイルも微笑み返す。さっきまでの表情なんてしまい込んで笑顔を貼り付ける。ようこそ。言って、声は当たり前のような陽気さを演出する。道化が染み付いている。内心そんな自分を嘲りながら、スマイルは椅子から立ち上がっり、戸口で遠慮がちにしているポエットを室内に招き入れた。
ドアを閉めれば、部屋はパソコンと常時付けっぱなしのベッドサイドのルームランプの灯りだけで、随分と暗い。小さな子どもにこれは少し怖いかと思って、スマイルは照明をつけようと手を伸ばした。その彼の、服の端が引っ張られる。気付いて動きを止めると、小さな掌で服の端を引っ張る子を見た。
上目がちに見つめて、
「暗くても…平気」
表情がどこかぎこちない。やはり、少し怖いのだろう。それは仕方の無いことだ。彼女は光の生き物なのだ。闇を恐れるように生まれてきた。スマイルは十分に理解している。闇を好くのは闇の生き物だけ。光を持つものは闇を恐れる。
「無理しなくてもいいよ。照明くらい付けさせて? ね?」
子どもを言い聞かせる口調で言えば、ポエットは首を横に振ってイヤイヤをする。服の端を握り締めて、下を向いた。スマイルは苦笑を浮かべて嘆息すると、本当に? と念を押す。子どもは頑固だということは理解していたから。だから、ポエットがその問いに頷くと、彼はそれ以上は何も言わなかった。スイッチに伸びかけていた腕を下ろす。
ポエットはしばらく俯いて、スマイルの服の端を握って立ち尽くした。スマイルは静かにその姿を眺める。
ややして、ポエットは顔をあげてルームランプを見た。そして、スマイルの服の端を持ったまま近づいていく。スマイルはされるがまま引っ張られてついて行く。傍まで近寄って、ポエットは淡い光のルームランプを見つめる。ぼんやりと照らされる彼女の姿もぼんやりと滲んで見えた。スマイルが言葉もなくそれを見つめていると、ポエットはルームランプのスイッチを切った。部屋が一段と暗くなる。行動に少しの戸惑いを覚え、スマイルが瞬いていると、今度は付けっぱなしのパソコンへと引っ張られた。部屋の光源はもうそれしかない。
え。と、一瞬予想した彼女の次の行動は、想像通りだった。ポエットはスマイルの服を引っ張ったまま、パソコンの画面の光を消そうと首を傾げた。触ったことがないのだろうということは容易に知れて、また、消して欲しいと懇願する瞳が向けられるのも容易に想像できた。そして、その通りだった。
スマイルは服を引っ張られ、彼女の要望に答えるべくパソコンの電源を落とそうとマウスに手を乗せる。カーソルを動かしながら、落とす前に一つ訊ねる。

「真っ暗になっちゃうよ?」

おどけた調子で言って、

「いいよ」

彼女は少し震える声で言った。闇に包まれる。その瞬間が怖いのかもしれない。そう思いはしたが、パソコンは別れを告げる音を流す。
そして、しばらくして光が消え、部屋は真っ暗になった。

いくら透明人間と言えど、闇に目が慣れるまでは時間がかかる。闇しか見えない視界。服が下の方へと引っ張られる。くいくいと下へ下へ。しゃがんで欲しい。声にしていないポエットの無言の要望が手に取るように分かった。そう、子どもは分かりやすい。頑固で、扱いづらくて、でも、分かり易くて。そう。だけど、本当に分かってはいない。何を思ってそう望んでいるのか。全て、分かっているわけではない。
そうだ。
瑣末なことを感傷的に思っているのは知っていても、なぜそう思うのか本当のところは分かってはいないのだ。
ああ、そうか。

希望通りに膝を床に付けてしゃがみ込む。目が暗闇に慣れてきて、茫洋だけれど、ポエットが目の前に立っていることを知る。彼女の視線がこちらをじっと見つめていることを肌に感じる。そして、確かに、小さな掌が伸びてきて、僕の頭、抱きつくように抱きしめてくれたのを、子ども独特の温かな体温を感じて知った。
ぎゅっ、と大切なぬいぐるみを抱きしめるように抱きしめて。震える声が紡ぐ言葉を耳に収める。

「泣いてもいいよ。真っ暗だと見えないでしょ? ね?」

嗚咽が混じりそうな声で言う。必死な声が言う。それを耳に収める。優しい言葉をしっかりとしまい込む。
首筋に冷たい感触がする。抱きしめてくれるポエットの吐息が震えている。
ああ、そうだ。それだけだったんだ。
小さな背中に腕を回して、柔らかく抱きしめ返して、スマイルは真っ暗闇でも彼女の髪が向日葵の色をしていることを知る。温かい。明るい。太陽のような色。
そう。たったそれだけだったんだ。
しゃくりあげながらスマイルを抱きしめる小さな女の子の、小さな体、小さな手、高くて生命力に溢れた体温、感じて。本当は泣いてしまいたかったけれど、まだ泣くわけにはいかないことに気付いた。だから、

「ありがとう」

謝辞を述べて、目を瞑った。





瞼の裏に、あの萎れた向日葵が浮かぶ。




















 fin.









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