067.七部袖











 寒くて、足先は冷えて感覚が薄い。睨みつけるパソコンの画面は煌々と輝いて、画面が眩しい。音楽プログラムの何一つ記していない五線譜の上、トーン記号だけがやけに目に付く。レオは頬杖をつく。睨みつける目は変えず、ため息をこぼした。眉間に皺を寄せて、大きく息を吸って、ゆっくり吐き出す。
「ん」
 睨みつける画面が、音は立てずに細かく揺れていた。目を瞬いて、あ、と思う。自分が貧乏揺すりをしているからではないか。気づいて、右足がせわしなく動いているのを半目で睨む。勝手に動いていた足を自分の意思で止めて、なにしてるんだかと呆れる。ばかだなぁ。思って、目を閉じた。





 立春。春が来た、ってそれはもうずいぶん前のことなのに、今日はとても寒い。布団を被って寝ていたい。それくらい寒い。春なのに寒いなんて、理不尽だ。冷えたジーパンに足を通して思う。上着と部屋用の上掛けを着ると、レオは一度布団を振り返った。今はまだ自分の温もりで温かいのであろう布団。う。呻いて、リビングへ繋がるドアを開けた。誘惑を振り切った。
「あ、おはよ」
 すでに起きていたスギがコーヒーを入れながら言う。頭は未だに布団のことで一杯だったレオも、声に気づいて挨拶を返す。返そうとして、一瞬止まる。しゅんしゅんとケトルが蒸気を吐き出す音だけが部屋に響いて、レオはただ呆然とスギの姿を凝視した。
「なにその格好」
「え?」
 冷蔵庫から苺ジャムを取りながら、スギは不思議そうにレオに返事を返した。トースターがちぃんとなって、食パンが焼けた事を知らせる。スギはそちらに目をやりながら、
「なにが?」
「いや、服」
「服が? なに?」
 皿に二枚のこんがり焼けたトーストを載せ、テーブルに運ぶ。そして、ケトルの火を止めた。紅茶の缶を開けて、茶葉をスプーンにとってすでに用意してあったポットへ。本来なら、ポットを温めるとか、カップを温めるとか、そういった事をしなければならないのだが、生憎スギは珈琲派。紅茶のおいしい飲み方など知らないから、適当に淹れる。
「いや、だから、なんでこの寒い中で七分袖なのって」
「へ? …ああ」
 特大のカップに紅茶を注ぎ終わって、スギはそれをレオに差し出す。レオは大人しくそれを受け取って、寒さに凍えた指先を温めた。そして、スギと一緒にテーブルに向かう。席に着いたスギの、その服は黄色と黄緑のボーダーの七分袖。とっても春らしい。対するレオは、適当な着合わせで、部屋なのに厚着だった。
「昨日さ、僕オフだったでしょ?」
 コーヒーをすすりながら微笑んで言うと、スギはジャム瓶を取った。レオは頷いて、自分は仕事だったなぁと思い返す。
「で、折角だから衣替えしたんだ」
 がりがりとトーストに苺ジャムを塗りこめながら言う。ふぅん、呟いて、レオは両手で抱え込むようにしていたカップをようやく口に運んだ。
「寒そうだよ」
「そう?」
「かなり」
「そんなに寒くないよ。レオこそ、やけに厚着だね」
「だって、寒いでしょ」
「暖房つけてるから大丈夫だって」
「確かにこの部屋は暑いくらいだけど、外に出たら絶対寒いよ」
 スギがトーストをかじった。レオはスギの傍にあるジャム瓶に手を伸ばす。軽く閉じられただけの蓋を開けて、ジャムをトーストに乗せる。その量は、あきらかにスギの倍はある。たっぷり特盛。
「ん、でも、もうすぐ桜も咲く季節でしょ」
 言って笑うと、テレビのリモコンに手を伸ばして、目覚ましテレビをかける。天気予報を見るためだ。その時刻まではもう少し時間がある。
「えー、ズームイン朝かけてよ」
「やだね」
「けちー」
 ぶう。むくれて見せて、レオはジャムたっぷりのトーストをかじる。スギはコーヒーを一口。朝の静かな空間に、テレビの音だけが忙しく響く。
「寒がりのくせに」
 レオがジャムを付けた唇で言った。スギは笑って、
「暑がりのくせに」
 自分の唇を人差し指で指して、とんとん。レオの唇にジャムが付いていると教える。気づいて、レオは舌でそれを舐めとる。苺の甘い味が口に広がった。
「外に出たら絶対寒い」
「今日は車だから平気」
「なにそれ〜」
「用事でもございましたか?」
「りえちゃんとデート」
「そりゃ残念。車は仕事優先だからねぇ」
 一瞬だけ、レオは本気でスギを呪った。車が一台しかない事も呪った。
「ま、僕は仕事を精一杯頑張ってくるよ」
 恨めしそうな顔のレオにそう言って、スギはコーヒーを飲み干した。

 天気予報は臨時ニュースで繰り越され、結局スギはそれを見ずに家を後にした。部屋の窓から覗く空は、快晴そのもので、いい一日になりそうだった。






 太陽の陽気がさんさんと降り注ぐ公園のベンチの上、レオは茶色のコートを着てりえを待っていた。真昼の太陽がレオへ惜しみなく降り注がれていて、彼の茶髪を鮮やかに透かしている。目は瞑られていて、顔は天を仰いでいる。ベンチの背もたれに頭を預けて、手はポケットの中。ゆっくりと息を繰り返して、公園に響く子供の声に耳を澄ます。しばらくはそのままで。じゃり、と砂を踏む音が近くに聞こえたので、レオは零す。
「あつい」
「そんな事ないよ」
 柔らかな声が答え、レオの座るベンチに振動が伝わる。どうやら隣に座ったようだった。レオは顔を戻して、目をゆっくりと開けた。
「レオ君が厚着なだけだよ」
 にっこりと笑う。柔らかな言葉の中に、朝のスギの言葉と同じものを見つけて、レオはむっと眉を寄せる。
「今に寒くなる。りえちゃん後悔するよ」
「天気予報は快晴だって言ってたけど?」
「僕より天気予報信じるんだ」
 いじけてそっぽを向けば、りえは困った風に首を傾けた。二つにくくられた髪と、首に巻いた黄色のスカーフが風に揺れる。紺のキャスケットの影、その中の瞳も困った色を浮かべている。白と赤のボーダーの七分袖から覗く白い手が、レオのコートの端をきゅっと掴む。
「折角のデートに雨が降ったら、残念じゃないの?」
 眉を少し寄せて、ほんの少しだけ悲しそうな、本当にほんの少しだけ泣きそうな声と顔をりえが浮かべたものだから、レオはコートの端を掴むりえの手をとって、そこに口付ける。
「それはそれで楽しむよ」
 言って、りえの手を引いてベンチから立ち上がった。



『スギに車とられた』
『え?じゃあ今日どうするの?』
『どうしようか?』
『え〜と……』
『写真好き?』
『うん』
『公園で撮らない?』
『私カメラ持ってないよ』
『スギの貸したげる。じゃ、いつもの公園で』
『え? う、うん』



 気づけば、フィルムを三本も使い切っていた。
「あ〜…、もっと持ってくればよかった」
 芝生の上、脱ぎ散らかされたコートと上着の傍にごろんと転がる。カメラは首にぶら下げたままで、荒く息をする胸には重い。くしゃり、と芝生の踏まれる音を聞いて、レオは顔を横に向ける。りえが隣に座っていて、彼女の青色のジーパンが芝生の青と一緒に見える。りえは公園の入り口に手を振っていた。
「でも、レオ君が子供の相手するなんてちょっと意外」
 言ったりえの息も僅かに荒い。額には汗がにじんでいる。レオは寝転んだままそれを見上げる。その視界の中、りえが微笑んできたので、レオは微笑み返す。
「そうかな」
「うん。スギ君ならまだ分かる気がするけど」
 その言葉にがばっと起き上がり、
「なにそれ〜」
「きゃっ」
 りえを押し倒した。突然の事に動揺して、顔を真っ赤にして、慌てふためきながらりえが弁明しようとする。けれど。
「だ、だって…」
「まだ言うか〜」
 レオにじゃれ付かれて叶わない。脇をくすぐったり、帽子を取られたり、スカーフをひっぱられたり、その様々な攻撃に一々反応してしまって、りえはレオから体を離すことも、言葉を言う事も中々できない。
「ちょ、レオ君…」
 息も絶え絶えりえが言い、その頃になってようやくレオは首に下げているカメラの存在を思い出して、それで止める。りえが困っているから止めたわけではない。
 レオは体を反転させると、そのまま先ほどと同じように芝生へ転がった。急に視界が広がって、一面の空が見える。大きな雲がぽつりぽつりと浮かんでいて、わたあめみたい。思わず、そう零しそうになる。けれど、乱れた息がそれを阻んだ。レオはゆっくりと深呼吸を繰り返して、息を整えていく。見れば、りえも深呼吸をしていて、二人とも汗だくで、本当に、
「なぁにやってんだか」
 苦笑する。りえもそれに応えて笑った。
 広い空を見上げながらしばらく、二人はただ息をする。汗が引いていくのを感じながら、鳥のさえずりを聞いた。子供の声はしなくて、それが時間の経過を教えていた。太陽は斜めに傾き始め、気温も少し下がったようで、汗をかいた肌には少し肌寒い。
「あ、そっか」
「なに?どうしたの?」
 りえの呟きに気づいて、レオは彼女のほうへ顔を傾けた。りえは空を見つめながら、続きをポツリと零す。微笑を浮かべながら。
「レオ君は一緒に遊んでただけなんだ」
「え?どういう意味?」
 え〜と、言い澱んで、それでも微笑んで説明しようとする。その直向きな姿がかわいいと素直に思えて、レオの顔は自然にほころぶ。
「だから…、あっ!!」
「今度はなにさ?」
 あはは、レオは声を上げて笑って、けれど、りえは目を何度も瞬いて、口をパクパク動かしている。本当になんだろ。思ったレオの視界に一粒の白。
「え?」
 空を振り仰げば、青の中にちらつく白い、
「ゆ、ゆきぃ!?」
 本気で驚いて、飛び起きる。りえも上半身を起こした。レオは目をこすって、それでも二人の上に降り注ぐ大粒の雪が見えるので、
「えぇ!? だって、もう梅咲いてるんだよ!!」
「桜前線も北上中だと思う…」
「だいたい晴れてるじゃん」
「天気予報は快晴って…」
「…うそ〜ん」
「…うそ」
 叫んで、呟いて、驚いて、顔を見合わせる。お互い驚いた顔をしていた。芝生の上、二人の間、寒風が駆け抜ける。りえは両腕を抱えて、肩をすくめた。それを見て、レオは慌てて自分の上着とコートを取りに行く。

 春の麗らかな陽気が漂っていたはずのホリディに、大粒の雪が注がれる。それは積もる事などなく、春の日差しの中で白く淡く溶けていった。





『レオ!!寒い!!』
『だから寒いって言ったでしょ』
『車でも寒い!!』
『はいはい』
『あったかいコーヒー用意しててよ』
『もう出来てるよ』
『マジで!?』
『りえちゃんにご馳走してるところだから』
『やったぁ!! ラッキィ!!』
『早く帰ってこないと冷めるよ』
『分かってる!!』





 ゆっくりと目を開ければ、真っ黒の画面が目に映った。うたた寝してたのかな。思って息を吐く。それが僅かに白く霞む。徐々に浮かびあがるように体の感覚が戻って来て、足先の冷たさや、凍えた指先が寒さに悲鳴を上げているのに気づく。ふと、レオはその凍えた指先でマウスを動かして、画面を再表示する。画面には変わらないままの、真っ白の五線譜が浮かぶ。レオはじっと見つめる。じっと、それかしか出来ないかのように、真っ白の、何も書かれていない五線譜を見つめて。

 鮮やかに想いだした記憶を、歌にしようと思った。




















 fin.





木原様へ相互記念。
2005.蒼鳩 誠







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