073.伊達眼鏡











 食器を片付けていると、彼は新聞を読み始めた。ばさっ、と広げて読む姿の半分ほどが、新聞に隠れて見えない。テーブルとシンクとを行き来しながら、アッシュはその新聞の一面に目を凝らす。英字新聞だ。彼らしい。僅かにそう思って、食器を運び終える。ばさっ、と新聞のページが繰られる。それを視界の端に捕らえ違和を感じ、あれ、と思う。腕まくりをしながら振り返って確認する。
 スマイルが黒ぶちの細い眼鏡をかけていた。新聞を読む隻眼は、確かにレンズ越しに紙面を睨んでいる。有り得ない事ではない。細かい英字が並んでいるから、不思議ではないのだが。そうなのだが、

「…スマイル」

「ん?」

 彼は目線を固定したまま返事を返した。アッシュはどう尋ねたらいいのか分からず、口ごもりながら、目を瞬いて、

「あの、それ…、どうしたんですか?」

 問われ、スマイルはようやく視線をアッシュに向けた。両者の間を遮っていた新聞が少し垂れて、彼の顔が完全に伺えた。現れたその顔がにぃと笑う。ああ、これね。言って彼は中指で眼鏡を上げ、新聞をたたんでテーブルに置いた。アッシュは何か、彼の思惑に嵌ってしまった気がして、思わず眉間に力が入る。スマイルは椅子をずらしてアッシュの方へ体を向けた。何を言うつもりなのだろうと僅か身構えると、彼は無邪気な笑顔を浮かべた。

「伊達眼鏡。ユーリのまぁね。…似合う?」

 けたけた笑って言うので、アッシュは、はいはいそうですね、ため息とともに適当に流す。けれど、どこか、何かが引っかかっている。釈然としない。感じて、口は勝手に次の言葉を吐き出していた。

「ま、あなたは眼鏡なんて必要ないでしょうしね」

 伊達でもない限り、かける機会なんてないでしょう。からかうように冷たく言って、アッシュは家事に戻ろうとする。文句が帰ってくる事を想像しながら、シンクに向かう。その背中。突然に突き刺さる視線。
 反射的に、振り返っていた。

「どぅしたの?」

 可笑しそうに笑って細められた隻眼は何の異変もない。気のせいだったのかと思い、曖昧に何でもないと答える。その声に彼の目がさらに細められた気がした。

「でもね……」

 笑いながら、スマイルは言った。はい。とアッシュは答えて、スマイルを見つめる。何となく。何となくだが、眼を離してはいけないような気がする。なぜかはまったく分からないけれど。何となく。

「僕は君たちほど眼が良くはないよ」

 アッシュに真っ直ぐ向かいながらスマイルは言う。笑みを浮かべ、テーブルに肘を乗せて頬杖をすると、彼はゆっくりと続ける。

「そもそも、僕は君たちと違って狩る側の者じゃないからねぇ」

 足を組む。ぶら、と底の厚いブーツが空中で揺れる。
 え、と聞き返すような声を出してしまって、アッシュは、はっとなって思う。彼の何かの思惑に嵌められたんではないかと思って。この返答の、受け答えの一つ一つがすでに彼の手の中であるような気がして。何となく、何となく、そう思ってしまって。けれど、アッシュは笑顔を浮かべたままのスマイルに、望んでなどいないが聞き返す。聞き返さずには居られず、ああ、それも思惑のうちだろうかなどと考えてしまう。

「狩る側?」

 そ、狩る側。言って、ふふふと笑う。そうだ。その笑顔が聞き返せと言っていた。言葉ではなく、空気、態度、そういったもので行動を強制している。
 そんな。そんな事はない。アッシュはそう思っている。けれど、そんな気がしてならないのだ。先刻から、ちらちらと掠める曖昧な感覚が訴えている。何かに嵌められたのではないか。と。

「ユーリや君が必要なのは物質的な食べ物でしょ? …血とか肉とか」

 左手をひらひらとさせて話す。右手は顔を支えている。足は組まれていて、厚底のブーツが宙に浮いている。髪はぼさぼさで、朝起きたそのままだとそれ自体が言っている。包帯はしていなくて、眼帯で、青白い肌がいつもより多く見えている。その姿に眼を離せず、アッシュはおそらく彼の思い通りであろう返事を返す。

「じゃあ、あなたが必要なのは?」

「魂だよ」

 即答した彼の唇が、にぃっとつり上がる。

「狩る必要がないんだ。魂なんてどこにでもある。そこら中に溢れてる。ユーリのように人のものである必要もない。木でも花でも魚でも、何だっていいんだよ。僕は。人のそれが一番腹持ちがいいってだけ。でも、君たちは違うでしょう? 人じゃないといけない。それは狩るという行為でしか手に入らない。だから狩るための色々な器官が優秀なんだ。違うかな?」

 一気に言って、スマイルは足を組みなおした。その仕草がどうにも目に残る。それはどうしてか、分かりそうで分からない。寸前の所で詰まって出てこない。それがこの場において大切な事か否かも分からない。けれど、アッシュはそれが必要な事だとは感じていた。何となく。曖昧な感覚が告げる。
 スマイルは笑っている。貼り付けたような笑顔だ。

「じゃあ、貴方が透明な訳は?」

「人から逃れるためさ。僕の場合、そのほうが効率がいいからねぇ」

 即座に返答を返され、言葉に詰まる。どの言葉も彼の策略の中では、足掻きにもなりはしないのだろうかと、思わされて。
 返す言葉が見つからなくて黙すと、スマイルは殊更笑みを深くした。

「君たちは人よりも優秀なんだ。僕は彼らに劣るくらいなのに」

 細められた隻眼が一瞬だけ虚空を泳ぐ。その空ろな目の、長い睫毛。頬に落ちている影に、アッシュは何かを分かりかけて、再度向けられた視線にそれは霧散する。

「僕は弱い」

 笑いながら、悠然と語る彼。そうは見えない。アッシュの口が開いて、とてもそうは見えませんよ。言いかける。そして、咄嗟に止める。きっとその通りだ。そう気づく。この人が弱いなんて、そんな事はない。有り得ない。道化がそのままを口にするなど有り得ない。道化をそのまま信じるのはいけない。
 アッシュは変わらず笑みを浮かべる彼に、鋭い視線を返す。彼の表情は変わらない。彼の心情が表情に表れる事はない。その笑みはまやかしに過ぎない。

「だから?」

「………っ、うふふふふ、ふふふ。ぁはっ、あはははは」

 両手で腹を押さえて、肩を震わせて笑う。かけたままの眼鏡が振動でずれる。アッシュは彼を睨みつけたままで、スマイルは組んだ足を正し立ち上がった。ほぼ同じ高さのスマイルの隻眼を双眸で睨む。スマイルはゆっくりと近づく。コツコツとブーツが鳴って、反響せずに響く。つま先が触れ合うほどの至近距離で止まって、彼の顔から表情が消えた。ずれた眼鏡、レンズ越しではなく直接隻眼が覗く。スマイルの青白い手が、アッシュの顔に伸べられて、その手で前髪を掻き揚げられる。そして、

「だから、君たちがいつか僕を狩るんじゃないかと、そう思ってね」

 頬のラインを一撫でして、離れていく。その手のなんて冷たい。スマイルは笑い、そのままアッシュに背を向ける。椅子に足が向く。
 スマイルの撫でた己の頬をなぞり、彼の細い背を見つめ、アッシュは一つの事に気づいた。

「スマイル」

「ん?」

 彼はすでに話し始めのように、席について新聞を広げている。ずれた眼鏡も直っていて、先刻と何も変わりはしない。その、彼へ。似た空気を持ち、似た考えを持つ、同じ冷たい手を持った、彼そっくりの彼へ。

「あなたとユーリはそっくりですね」

 言って柔らかに微笑んだアッシュを、眼鏡の中の隻眼が見ていた。



















 fin.









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