084.現実逃避











 海にいきたい。



 まっすぐに見つめて、彼はそう零した。
 歌番組の収録のために用意された控え室。小さくも大きくもないそこには、化粧のための照明がついていて眩しく、部屋は白い。そのほぼ中央に立っているユーリは、すでに全ての身支度を終えている。相応のメイクと衣装と、綺麗に塗りなおしたマニキュア、僅かに香る香水。後はもう、スタジオに足を運ぶだけ。現に、スマイルは先に行っている。
 言葉の唐突さに冗談かとも思う。
 アッシュはユーリを見つめ返して、少しの困惑と、少しの苦笑を浮かべようとして、何ですか? 急に。それよりも早くスタジオに行きましょう。言おうとして、

 一緒にいってくれないか?

 赤い唇が紡ぐ。
 アッシュは混乱を隠しもせず顔に浮かべて、それでもユーリは、冗談だと言ったり、笑ったりしないで、至極真面目な表情で立っているから。

 「いま、ですか?」

 そんな。そんな事はないだろうと思って、願って、そう言った声は掠れていたように思う。そして、アッシュが見つめる中、ユーリは静かに頷く。こくん、と子供のように。
 今、控え室には自分とユーリ。二人しか居ない。

 だから、鞄に入れていた車のキーと財布、彼の手を握って控え室を出た。





 ほんの数日前までは真夏日よりだったのに、今、頬に吹き付ける風は冬の香りを漂わせている。ひんやりとした風、空気、体に感じて、季節の移り変わりを感じる。
 車を止めた駐車場の近く、アッシュの身長の半分ほどの高さで出来たコンクリイトの堤防、それに沿って歩く。静かに潮騒が聞える。潮風が吹く。黙って前を行くユーリは風を受けて、立ち止まる。連れて立ち止まったアッシュは、ふわりと浮かんで堤防の上に立つユーリを見る。彼は海に向かい目を瞑って、僅かに両手を広げて、風を感じているようだった。綺麗な銀糸が風に揺れる。アッシュも目を閉じる。彼の感じている風と同じ風を感じようと思う。そして、髪を揺らし、頬を擽る風はやはり、冬の匂いがする。それは気が早いだろうか。そう思って目を開ければ、同じように目を開けたユーリが微笑んで、
「冬の匂いがする」
 独り言でなく、アッシュに告げるように目を合わせて言ったので、再度吹き抜けた風に、やはり冬の匂いを感じた。
「憶えていないほど永く生きているけれど、季節に厭きたことはないよ」
 水平線の向こう、仄かに太陽の余韻を残す空を眺めながら、ユーリは零す。
「春は待ち遠しく、夏には焦がれ、秋を思い、冬を心待ちにする。どれにも心が躍るよ。全く同じという季節は存在しなかったしな」
 言って、ユーリは砂浜に飛び降りた。とん、と軽く堤防を蹴って、羽を使ってふわりと降りる。さく、と砂浜を踏む軽い音がした。ユーリの降りた場所はアッシュの目に映らない場所だったので、彼は堤防から身を乗り出してその姿を追う。視線の先、
「同じ春は一度もなかった。同じようでまるで違った」
 呟いて微笑む。その瞳が、ついてこい。と言っていた。いや、そうして欲しいんだなと思わせたので、アッシュも堤防を越え、砂浜に飛び降りる。結構な高さがあったけれど、人狼のアッシュには問題ない。けれど、ユーリが降り立った時のような身軽さでは決してないので、ざっ、と重い音がして、彼の足は僅か砂に埋まった。
 見届けたのか、ユーリは砂浜を歩き出す。さくりさくりと、軽い音が潮騒の中で繰り返される。アッシュも後に続く。
「同じ夏は一度もなかった。同じようでまるで違った」
 呟きは潮風に乗り、アッシュの耳に届く。潮騒と彼の美しい声が心地よい。
「同じ秋は一度もなかった。同じようでまるで違った」
 砂浜を歩く彼の足取りはあくまでも軽やかで、反してアッシュの足取りは重い。足を一歩踏み出すごとに、砂が靴の中に入って不快だったし、砂の上では足をとられるような重い感覚がする。けれど、そんな事に構っている場合ではない。そんな暇はない。けど、だけど、ユーリはそうは思わないのだろうか、感じないのだろうか。
「同じ冬は一度もなかった。同じようでまるで違った」
 そして、波打ち際まで来たユーリは一度立ち止まる。彼の足先を波が掠める。
「同じものなど、一つもなかった」
 満ちては引いていく波。海。見つめて、ユーリは静かに歩を進めた。靴を履いたまま、向かってくる波に戸惑いもせず、ゆっくりと。海の中へ。やがて、彼の膝まで海に浸かる。黒い衣装が一層黒く滲む。
 ユーリは海に向かったまま、本当に仄かに太陽の余韻を残している、蒼い空を見つめる。水平線の近く、じっと見つめて、羽を広げる。そして、きっと目を瞑っただろう。アッシュにその姿は見えなかったけれど、何となく分かった。
 水平線の向こうから吹いた風をユーリは受け止める。
 銀糸はさらさらと揺れ、アッシュの目に軌跡を残す。彼の見つめる蒼い空。周りの夜空。それと同じような海。柔らかな潮風。聞える潮騒。見つめる光景はとても美しく、儚い。
 やがて、風が止んで、ユーリの羽は名残惜しげに閉じられる。そして、波打ち際で佇んでいるアッシュに振り向き、微笑む。微笑んで、
「…ありがとう」
 それから、少し困った風に、苦笑するように、
「どうしてかな……。お前と一緒に海へ行きたかった」
 潮騒に紛れそうな声量で呟くように言う。けれど、彼の声は何ものにも混ざる事などなく、澄んで聞える。美しく散る桜と同じく、彼の美しい声は悲壮な響きを持っている。悲しくも勇ましい。そんな気がする。
「だから……。……、…ありがとう」
 海の中、一人で立って微笑む彼の姿は綺麗で寂しかった。
 アッシュはユーリの元へ走る。ざばざばと海の中を強引に進んで行く。コートもズボンも濡れて不快で、でも、そんな事に構っている暇はなくて。彼の目の前に立って、見上げてきたその不思議そうな視線を無視して、彼の細い手を掴んで引き寄せる。ぎゅっと抱きしめた。
 抱きしめた彼の体は、やはり、冷たい。けれど、冷たいけれど、確かにある彼の体温。彼の生きている温度。
「俺、も……、ユーリと一緒に海に来たかった」
 腕の中の彼がゆっくりと背中に腕を回すのが分かった。それから、小さな相槌が返されるのも。
「ここは……海は、命の生まれる場所で、還る場所だから」
 だから一緒に見たかった。一緒に見る事が出来て嬉しい。だから俺も。
「ありがとう」
 そう、告げれば、ユーリは微笑んだようで、少しの沈黙の後で、嬉しそうな相槌が返される。  そして、名を呼ばれた。
 澄み渡るような声に呼ばれ、少しだけ体を離して、顔を見合わせる。ユーリはアッシュの目の前で、綺麗に微笑んで見せる。それから、ゆっくりと目を閉じた。
 潮騒。潮風。彼の吐息。彼の体温。感じて、アッシュは触れるだけのキスをユーリに贈る。空と海の間、祈りを込めて。








 いつか来る最期の時。
 その時の後も、貴方を優しく包み込んでくれる存在がありますように。
 貴方の傍に、この海と空のような優しさがありますように。








 腕の中、ユーリは身を寄せて、少しだけ泣いた。




















 fin.









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