090.耳朶











 闇の匂いの濃い部屋。血の匂いのこびり付いた部屋。僕と君が睦んだ部屋。愛してると言って愛してると聞かされた部屋。殺してあげると言って殺してやると言われ、死んじゃえと言って死んでしまえと言われた部屋。言葉にはせず、けれど共に、ずっと一緒にいたいと思った部屋。嘘のように長い年月を、君と共に過ごした部屋。君の部屋。

 君の声、吐息、心音。全て聞いた。飽くこともなく、昔も今も耳を傾けている。死ぬ事がないと思われている君の生きている音。僕は静かに耳を澄ます。震える僕の鼓膜、心。確かに君は生きていると、そう呟くために聞く。それを聞くための僕の耳。
 いつか睦んだ時の衣擦れの音、甘い声、甘い吐息、珍しいくらい多く脈打つ君の心音。憶えているよ。全て錆付いた心に刻み込んである。

 君の肌、髪、唇。余す所なく触れた。飽くこともなく、昔も今も触れたいと願わせる。闇の眷属で、闇を統べる吸血鬼だから美しい。そんなことを誰かが言っていたように思う。けれど、僕は君が君である以上、美しいのだと思う。君という存在、僕にとってこの上もなく、優美で幽玄。そして同時に可愛くもある。言えば君はいつも少し怒ってみせる。言わずには居られないから、いつも僕は言ってしまうのだけれど。
 同じ寝台の上、同じシーツに包まりながら、君の髪を梳いた時の、肌に触れた時の、滑らかな感触。今でも指先に残っている。忘れられる訳がない。君の形良い唇に触れた時の柔らかな感触、微かに触れる吐息。忘れたくても、忘れる術などない。焼きついて離れない。全て。





 数年。数十年。数百年。数千年。いったいどれくらいの時を共に過ごしたのか、憶えていない。この世界にいつから居て、いつまで居るのか、僕は知らない。君も知らない。けれど、確かに言えることがある。
 『僕が知っている君を僕は憶えている』ということ。
 君は僕の全てで、けれど、君の全ては僕ではない。こんなに長く生きていても所詮は生物。僕もいつか死ぬ。だけど、それまでの長い間。刻み込むように焼き付けるように君のことを憶えている。記憶を必死に繋ぎ止めているのではなく、無意識の中で心臓を動かし、呼吸をするように、そんな風に自然に君を僕の心においている。
 君は僕の全てで、けれど、君の全ては僕ではない。吸血鬼が永遠を生きると信じているならば、それはなんて愚かしいこと。なんて信心深いこと。もし、誰もがそう思うならば、僕はそんなことはないと言う、初めての生き物になろう。吸血鬼は不死者でなく、生者。いくらでも叫んであげる。君がそう感じて、そう思い、そう生きるまで。何度でも何度でも叫んで、それでも駄目なら君の傍で囁いてあげる。静かにずっと、君がそう思うまで。



 瞳に君の姿を映して、声をかけて、触れて、手を繋いで、隙間なく抱き合って、それでも埋まらなかった距離があるのを、僕は理解している。ほんの僅かの短い距離は、縮まらないことには遥かに遠く、どうしようもない切なさと淋しさを生む。心を蝕んで、やがて、君と僕が離れるまでそれは続くのだろうと思わせるような疎ましい感情。だけど、知っている。君と僕が離れたとしてもそれは消えず、さらに心を蝕むことを。
 君が眠りに落ちていた数百年。僕はそれに気づくことが出来た。君が傍に居ながらにして、遠くにいってしまっていた数百年。僕はどれ程のものを得ることが出来ただろう。いつの間にか盲目的に君を見ていたことも。君が傍に居て、君の吐息や声や鼓動や、肌、髪、それらを感じ手を伸ばして触れることが出来るということ。そのことがいかに幸せなことかということ。当たり前で忘れていた幸福な時間を噛み締める。今更ながらに君を好きだと、愛していると、離れたくないと、そう、思うこと。眠っている君の横で僕は気づくことが出来た。蝋のような弾力のない肌に触れ、数時間かけて繰り返される息と鼓動。ぴくりとも反応を返さない、瞳に僕を映さない君。向かい合って、気づいた。だから、今、傍に居る。離れずに傍に居る。いくら切なさや淋しさが心を蝕んでも君が居る、君が生きているこの世界で君の傍で、僕は君が生きているということを感じることが出来ることの幸せ。数千年かけて気づいたから。時には一人で旅にも出よう。けれど、いつだって還るのは君で、いつだって求めて止まないのは君だけ。
 例え、あの僅かな距離が永遠に縮まらないとしても、僕は君の傍に居よう。



 僕は知っているつもり。
 君の全ては僕ではなく、また、君と僕は酷く似ているということも。
 だから、知っている。分かっている。ちゃんと理解している。指先から全て、君を理解している。求めて止まないもの、心に潜む厭うもの。全て。全て。全て。
 愛する人さえも。










 夕闇が差し込む部屋。目の前に居る君は、寝台に横になって眠っている。静かな寝息を立てて、胸を上下させ、鼓動を繰り返している。あの眠りに比べれば、とても浅い眠り。
 僕は寝ている君に近づいて、寝台に手をついて、シーツに皺を寄せる。目を瞑っている君に顔を近づけて、唇に唇を近づけて、
 君の耳朶を甘く噛んだ。




















 fin.









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