『 frozen orange 』








 携帯電話でたった一言。あつい。それだけ述べて電話を切る。嫌がらせなんかじゃない。意思疎通。自分勝手だなんて言わないで?これが僕の最上級の愛情表現。嘘なんかじゃない。本当。嘘なんかじゃない。

ただ。

ただ、不器用なだけ。





クーラーが壊れた。
それだけでこんなにも世界は変わってしまうのかと、レオは汗ばんだ肌に眉を寄せて思う。だらしなく寝転んでいる、いつもは心地良い布地のソファも、今はただ暑い。窓から覗く灰色の曇天も、町並みも、合わせて暑い。窓から吹き込む清涼には程遠い風が、追い討ちをかける。触れる空気が暑い。吸い込む空気も暑い。吐き出される空気はもっと暑い。何から何まで暑い。暑い。暑い。
その上。
翌朝降った雨のせいで空気は湿って気持ち悪い。いちいち触れて、くっ付いて、纏わりついて、離れない。蒸し暑い。うんざりする。
そうだ、スギは言った。梅雨初めから冷房をかけ続けた罰。自然に悪いよ。あやまっておきなさい。
ふざけないでよ。暑いから冷房をかけた。何が悪いっていうのさ。極々自然なコトではないですか。君は暑さに強いから、いいよ。でも僕には耐えられない。暑苦しいのなんて、まっぴらごめん。梅雨の湿った暑さなら尚更耐えられやしない。自然に悪くて結構。君だって冬に暖房かけっぱなしじゃないか。

カシャン。

悶々と愚痴を考えていたレオを、乾いた音が引き戻した。
その音にレオは息を長く吐くと、重たげに体をソファから起こす。顔を背もたれから出して、そのまま凭れ込む。吹き抜けのキッチンの方に視線を向けて、想像通りの少し困った顔を見る。
「あ、え…と……」
レオの視線に気付くと、殊更困った顔をして、小さく万歳にしたままの両手を意味もなく動かした。そんな動作よりも、レオは後ろ一つに束ねられた髪が小さく揺れるのに目が行く。
「なぁに割ったの?」
まどろんだ後のような半目で問いかけると、彼女は両手を胸の前へ持って来て申し訳なさそうに言う。見ながら、レオはエプロンと同じ色したバンダナを巻いた姿を可愛いと思う。ふわりとした髪に良く似合う。
「黄緑と黄色の横じまのガラスコップ……」
「…ああ、あれね」
スギのだ。ざまぁみろ。
思って、目の前の困った顔を見る。困んなくてもいいのに。
「……ケガはない?」
とりあえず、そうなら問題はない。スギが困るだけ。それだけで済む。
「うん。でも…」
どうしよう。困り果てた顔をする。
だから、レオはスギの物だと言わない。
「食器はどれくらい洗えたの?」
「…これが最後だったんだけど。……ごめんなさい」
「ううん。いいよ。どうせ安物。…割れたのは危ないから、そのまま放っておいて」
「でも片づけくらいはしなきゃ、悪いよ」
「…ん。でも、万一にでもりえちゃんにケガして欲しくないから」
頬が赤らむ。嬉しいのだろう、八の字になっていた眉が一気に逆に変わる。それが可愛いい。そう思う。思ったことや考えたことが、そのまま表情に出る。そんな素直な所が可愛いのだと思う。
見つめるレオの視線にりえも目を合わせると、
「…ありがとう。でも、本当にごめんなさい」
ぺこりと頭を下げて謝罪。動作に連れて、長い髪の毛が動く。ふわり。ふわり。湿気を吸っていつもより膨らんだ髪は、重たいはずなのに、いやに軽やかに揺れてみせて、レオにとってはちょっとした不思議。
「いいって、気にしないでよ。それより、今日持って来たお土産ってなんなの?」










スギが仕事で海外に行った。
僕らの携帯はまだボーダレスじゃないから、スギは持って行かなかった。
きっと僕だってそうする。だから別に文句はない。
文句はないはずなんだけど。なかったはず、なんだけど。
スギが帰ってきた時、メールボックスが僕のメールでいっぱいだったら面白いなって思って、夜中にスギの携帯に短文の素っ気無いメールを送る。数秒の後、スギの部屋から着メロが流れる。
おお、届いた届いた。
なんて面白がって笑ったのも、つかの間。
もしかしたら、笑う隙もなかったかな。
いやに、淋しいじゃん、そういうの。
何となく、切なくなっちゃうじゃんか。

スギは嫌な奴だ。本当に。






「え〜と、冷凍蜜柑」
「……え?」
えへへ、と言いながら照れくさそうに笑う。りえは呆気にとられたレオに構わず、タオルで手の水を拭き、冷蔵庫に歩む。冷凍室を開けて、ネットの中に入ったまま凍っているお土産の蜜柑を、嬉々としてかざしてレオに見せる。
無邪気なその姿にレオは、
「可愛いね」
頬を緩めて、つい口にしてしまう。途端にりえの頬が赤くなるのが見えた。





着メロがさ。同じとか、あり得ないよ。
企んだとしか思えない。
絶対わざとなんだ。全部。





「じゃあ折角だし、こっち来て食べようよ」
ひらひらと力なく手招きする。りえは反射的な速さで頷くと、すぐにソファの横に立った。レオは端によって、りえのためにスペースを開ける。その間、彼女はエプロンとバンダナ、それから髪を纏めていたゴムを外す。そしてそれを近くのサイドテーブルに置く。
「はいはい、座って座って〜」
言われたとおり、すとんとソファの端に腰掛ける。ネットはテーブルの上に置いて、その中から蜜柑を一個だけ取り出す。ティッシュを引いて、皮を剥き始める。凍っているので硬くて剥きにくい、その上冷たい。指先がじくじくと痛む。それでも、少しずつ剥いていく。
その奮闘している姿をレオはソファにも垂れて眺める。必死になっている姿が余りにも可愛いので、そう思ってしまうので、頬が少し緩む。
どこかの誰かさんはこんな可愛い表情や行動をしてくれないし。したとしても、次の瞬間には僕も同じ顔にさせられるから、いつも悔しい。
窓から入り込んだ湿っぽい風に、レオはまた纏わり付かれる。薄く汗ばんだ肌も、その周りの停滞している湿気の多い空気も、一時だって忘れさせてくれやしない。暑苦しいったらないよ。
「…レオ君?」
呼ばれて彼女の手元を見れば、すでに丸裸の小さな蜜柑があった。
それに視点を固定して、レオはしばし呆然とする。そして、りえが不思議がって首を傾けた頃にようやく動く。というよりは倒れたに等しい。レオの頭はりえの太もも目掛けてダイブしていたから。
「…えっ?わ…」
驚いた顔のりえを見上げ、レオは満足げに微笑む。イタズラに成功して喜ぶ子供のような、無邪気な笑い。膝枕なんて可愛らしい行動。
「食べさせて〜」
そうやって、笑ってそんな可愛い事を言うものだから、
「…行儀悪いよ?」
りえもくすくすと笑って答える。
「今更だし?……はい、あ〜ん」
そう言って、レオの大きく開けられた口に、りえは蜜柑を一房そっと入れる。指が唇に少しだけ触れた。レオは蜜柑の冷たさに目を細める。口の中だけが酷く涼やかになって、すぐにそれを通り越して冷たくなる。口内の温度に連れられて、蜜柑がゆっくりと柔らかくほぐれ、甘い汁が舌に触れた。
始めは少し驚いたけれど、さすがりえちゃんの持って来たものだと感心する。鬱陶しい空気を紛らわすには、とてもおいしいお土産だ。
蜜柑の甘味に顔をほころばせているレオの、その顔を見て、彼の唇に触れた自分の指先を見て、りえは微笑む。
「……猫みたい」
甘えるレオが可愛くて可笑しいのか、嬉しくて笑っているのかよく分からないけれど、りえはくすくすと楽しげに声を漏らして笑っている。それにレオも微笑み返して言う。
まさか、そんな事を言われるなんて考えもしなくて。
「そう、僕は猫なんだよ。気ままに生きる可愛い猫」
「可愛い?」
「うん。可愛いでしょ?飼ってみる?」
「ううん、いいよ。だってもう飼い主はいるでしょ」

「…え?」

「スギ君も大変だね」

ふふふ、って可愛らしく笑いながら言った彼女の言葉を理解するのに、僕は相当の時間を要した。彼女が訝しむ前に次の言葉を言えて良かったと、心底思う。

まさか、そんな事を言われるとは夢にも思ってなかったから。








僕がスギの飼い猫?













「……っ?」
夕暮れの眩しい西日が瞼の裏から突き刺さってきて、心地良いまどろみからレオは引きずり出される。うっすらと目を開けると、先刻食べた蜜柑のようなオレンジ色が目の前に広がっていた。ゆっくりとソファから起き上がると、ぼんやりとしたままの頭で、呆然と辺りを見回した。
そして、机の上にメモが残されていることに気付く。緩慢な動作でそれへ手を伸ばすと、可愛らしい文字で構成されている文を読む。

『 起こすのも悪いので帰ります。ミカンは冷蔵庫です。

     また 電話して欲しいです。     りえ 』

読み終えて、冷凍蜜柑おいしかったなぁなどと思いつつ、はっきりしない視界に何度も瞬きをした。
一つ欠伸をして、ため息を吐くと、壁にかけられているカレンダーが視界に映る。ふざけた絵と線と文字で構成されているそのカレンダーは、スギとレオが二人で作ったもので、細々とした予定が書かれている。
レオの予定はスギの文字。
スギの予定はレオの文字。
いつからか勝手にそうなっていて、スギの文字が言うには、レオの明日の予定は朝からスタジオで打合せ、午後はオフとなっている。
レオの文字が語るスギの明日の予定は。
見る前に、レオはズボンのポケットに入れっぱなしになっていた携帯を取り出す。ちゃんと朝起きれるようにアラーム設定をしようと、メニューボタンを押しかけた、その途端。
聞き慣れた音が耳に触れた。スギと同じ着メロ。僕らの音。
違うのは携帯の画面の中でケロさんが踊って、誰かさんから電話がかかって来ている事を知らせているくらい。
レオはしばらくケロさんに踊ってもらった後、ゆっくりと通話ボタンを押して、耳にあてる。開口一番、何か嫌味を言ってやろうかと思っていたりもしたのですが、やはりスギには少し適わなかった。
『レオ、歌って!!』
「はい?」
『いいから早く!!』
「…開口一番意味分からないんですけど」
言えば、電話越しに地団駄を踏むような音が聞こえた。
『もう駄目、もう耐えられない』
「何が?」
『もう三日だよ!?おかしくなりそうなんだよ!?』
「だから、何で?」
『君の歌がないから!!』
「…………」
『まさかここまで君に依存してるとは思わなかった。不覚。もう、毎日毎日恋しくて堪んない。だから早く歌ってよ』
「…………」
『…レオ?』
本当に君は嫌な奴だね。
「じゃあ、仕方ないから歌ったげる。でも、僕のお願いも聞いて」
『いいよ。何でもしたげるから。何?チョコレート?』
「ばぁか、違う」
『じゃあ何なのさ』
「…僕も君とおんなじ。君も歌ってよ。僕も君の歌が聞きたいの」
『……………以心伝心?』
「ばぁか」
笑ったら、電話越しにスギの笑い声も聞こえた。


きっといつでも、こうやってお互い様なのかも知れない、お互いに不器用な感情表現をしているのかも知れない。
きっといつでも、僕はスギに適わなくって、スギも僕に適わない。
きっとそれでいいんだと思う。それがいいんだって思う。


ようし、じゃあ、歌いましょう。
君のメール着信音で、僕の電話着信音。
いつでも愛しい僕らの音を。
















「明日空港まで迎えに行ったげるよ」



レオの文字がスギの帰国を知らして、スギの文字がレオの午後のオフを教えているので、レオはそう言って電話を切った。







日が落ちて空が暗くなると、湿気も気温も、驚くほど心地良くなっていた。



























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