『 fake smile 』

















 息を吐くと、それは白く濁っていて、まるで自分のようだな、と思ってしまった。





「さなえちゃん」
 校門へ続く並木道で後ろから呼びかけられたので、立ち止まって振り返る。下校する生徒の群れの合間を縫って駆け寄って来る姿を見て、私は微笑む準備をする。その間にも寒風は吹き、落ちる葉を散らし、首に巻いたマフラーを揺らす。
 やがて、追いついた彼女は満面の笑みを浮かべて、
「一緒に帰ろう?」
 寒さのためか、走ったためか、それとも、照れているのか、ともかく頬を赤くして言った。私は微笑んで承諾の言葉を送る。そうすれば、彼女は本当に嬉しそうな顔をして、並んで一緒に歩き始めた。そういえば、最近は一緒に帰っていなかったな、と今更気づいて、ほんの少し謝りたくなった。
「さなえちゃん、今日は部活ないの?」
「うん。コンクール終わった後だからお休みなの」
「そっか。……どうだったの?」
「団体は銅賞。個人は審査員特別賞だったわ」
「そっか。…えっと、それって凄いよね」
 少し慌てた風に、困った風にして言う。彼女は歌のコンクールで賞を取るということが、どういう事なのかあまりよく分かっていないらしい。そういう事がよく分かる表情を浮かべていた。それで、良いと思う。分からなくてもいいのだ。賞を取ることが凄いか凄くないかなんて。
「まぁ、表彰状とトロフィーは貰えたから、それなりにね」
 微笑んで、彼女が過剰に受け止めないように。
「でも、県が主催、学校での参加だから、よく分からないわ」
「よく分からないって、参加したのに?」
「ええ」
「そういう…ものなの?」
 きょとんとした顔で言って、
「そういうものよ」
 悪戯な笑顔を浮かべて応えれば、彼女は困惑したような顔になって、なんと言っていいのか分からない。そういう表情になる。それでも、会話を続けるための言葉を必死に探して、ようやく、あたふたしながら、
「でも、しばらくはさなえちゃんと一緒に帰れるね」
 言って、嬉しそうな顔をする。その言葉、表情、行動、全部が嬉しいと思った。素直で可愛いな、と思った。ひねくれ曲がって元に戻れない自分とはまるで正反対だとも思った。
「さなえちゃん、この後予定ある?」
 校門を抜けた頃、そんな事を聞くので、やはり少し謝りたくなる。きっと一緒にどこかへ行こうと言ってくれようとしているのだ。久しぶりに遊ぼうと思っていたのだ。
「あるけど…、どうして?」
 罪悪感が蝕む。彼女の誘いは断りたくなかった。けれど、数時間前に予定が入ってしまっていた。それは唐突に、突然に、それも授業中に来た、スギくんからのデートのお誘いのメール。彼女と会った後に来たのなら、断っていただろう。でも、約束したからには守らなければいけない約束。スギくんにも最近会えていなかったのだから。
「もし暇だったら一緒に生地屋さん行こうかなって思って、でも、用事があるんじゃ仕方ないよね。残念」
 眉を八の字にする彼女。交差点に差し掛かって二人は立ち止まる。信号が青になるのを待ちながら、目の前を走りすぎるいくつもの車を眺める。謝りたくて仕方がない。口が謝罪の言葉を言いかけている。けれど、少しの沈黙の後に彼女は言う。
「……明日も一緒に帰れる?」
 その問いにいくらかの安堵を覚える。
「ええ」
「そっか、良かった。えへへ、明日が楽しみ」
 車の流れが止まる。数秒して信号は青になる。一緒に渡ろうとして歩を進めた。けれど、彼女は立ち止まったままで、振り返ると、
「じゃあ、私こっちの道だから」
 指差して、手を振って、
「また明日ね。バイバイ」
「うん、バイバイ」
 微笑んで手を振り返す。きちんと見届けて彼女は歩き出す。その細い後ろ姿、見つめて、本当に少し、謝りたくなった。

 だけど、彼女の求めているのはそんな言葉じゃないと分かっているので、笑顔で見送る。





 待ち合わせした喫茶店の奥にスギくんは居た。店内はセピア色をしていて、流れている音楽は外国のカフェミュージック。柔らかな女性の歌声と低く優しい男性の歌声が、静かにかき鳴らすギターに合わせて聞える。それはとても落ち着いていて、心地よいものだった。
「スギくん」
 彼の座っている真横に立って声をかけると、机の上のノートに落ちていた視線を上げてくれた。微笑んで、おはよう、と言った顔は眼鏡をかけている。
「こんばんはの時間だよ?」
 微笑み返して向かいの席に付くと、彼は眼鏡を外してノートを閉じた。机の端に寄せて置く。
「眼鏡…どうしてかけてたの?」
 ふとした疑問だ。私の記憶違いでなければ彼は目が悪くはないはずで、それをかける必要はどこにもない。伊達眼鏡、にしてもこんな所でかけるのは少し可笑しいように思う。落ち着いた喫茶店の店の奥、客は多くない。追っかけ対策にしてはどこか変。
 不思議そうに問うた私の目を見て、彼はにっこりと笑う。
「頭良さそうに見えるでしょ?」
 返答にやや唖然。
「それが理由?」
「レオが似合うって言ってくれたしね」
 あのレオがね。付け足して言って、苦笑する。彼がレオくんについて話す時、苦笑する事が多い。嬉しそうに苦笑する事が多い。そんな気がする。私はすこしの嫉妬を覚えるのだけれど、彼の相棒にそんな感情を抱いても仕方がない。例えば、あり得ないことだけれど、スギくんがりえに嫉妬したとしても私にはどうする事も出来ない。私はただ困ってしまうだろう。だから、そんな風に彼を困らせたくはないので、私はそのことを言ったことは一度もない。いくらレオくんに嫉妬しても羨望しても、私は彼の代わりにはなれないと、十分に思い知っているので。だから、余計に腹の立つ事もあるのだけれど。
「でも、確かに似合ってるわ」
 笑って言えば、そうでしょ? と返す彼。自慢している子どもみたいな顔をしている。大人びた彼の中に垣間見る少年の顔。それが見えるたびに、嬉しいような安堵するような気持ちになる。
 ふと、彼の表情が変わる。後ろから足音が聞えてきたので、店員が注文をとりに来たのだろうかと思う。けれど、現れた飴色の腰エプロンをした店員は手に銀色の盆を持ち、その上にはカップを二つ載せていたので、あれ、と思う。思う間に、店員はカップを目の前に置いて、
「お待たせしました。カフェオレとホットチョコになります。ごゆっくりどうぞ」
 そんな事を言ってカウンターに戻ってしまう。スギくんはありがとうございます、とかそんな感じのことを言っただけだった。
 机に置かれた白い陶器のカップから立ち上る湯気を見つめて、その中身を見つめて、彼が事前に私の分も注文していたのだろうと思って、けれど、カップの中身は間違いなくチョコレート色で、
「私、甘いもの苦手だって言わなかったかしら」
 間違いなく言った記憶があり、最近のことだと記憶しているので、断りの言葉は入れないでおく。もし、彼が忘れていたら彼の過失だから。
 やや不快な顔をしている私に、彼は悪戯な笑顔を浮かべて言う。
「うん、言ったね。でも、ここのはそんなに甘くないからどうかなって思ってさ」
 そう言われては、飲まないわけにはいかなかった。甘いもの、生クリームやチョコレートは特に苦手だった。味は好きなのだけれど、食べた後はよく胸やけを起こしてしまう。だから、出来るだけ避けていた。もちろん、りえの作ってくれるお菓子は別だけれど。
 カップの細い取っ手に触れる。冷えた指先にはとても温かい。カップを口に近づけて、鼻先に触れる匂いを感じる。それは紛れもなくチョコレートの甘い匂い。意を決して、カップに唇を付けて、恐々と一口飲んだ。
「………甘くない」
 全然甘くないという訳ではなかったけれど、チョコレートの甘みよりも渋みのほうが勝っている。
「でしょ?」
 笑っているスギくんの顔が本当に嬉々としている。悪戯に成功した顔だ。私は確かめるようにもう一口飲んで、やはり、同じ事を思ってしまうので、口からぽろりと言葉は零れる。
「おいしい」
 自然と顔が綻んでいた。彼の行動、それに至った気持ちが嬉しくて、笑顔になってしまった。スギくんはそんな私に微笑み返す。
「そういう笑顔が見たかったんだ」
 言って、緩やかな沈黙。表情を微笑から真面目なものに変えて、さらに言葉を続ける。私はカップを持ったまま、彼を見つめる。
「さっきみたいな……、レオの時に見せた笑顔ってあんまり見たくないんだよね」
 思考が止まる。体が固まってしまったような気になる。
「誤魔化すための笑顔に見えるからさ」
 店内の空気が一気に下がった気がする。私は驚いて、じっと彼を見つめるしか出来ない。
「だから、僕の前ではちゃんと笑ってて欲しかったんだ」
 言って、照れくさそうに笑った彼の顔が滲む。
 ぽたり、と自分の手の甲に落ちた雫に、ようやく自分が泣いてしまったことに気が付く。ぼやけた視界の中で、彼は戸惑ったような顔になる。
 私は持っていたカップをソーサーの上に戻す。食器のぶつかり合う高い音が、真っ白になった頭の中でいやに響く。彼が見つめる中、私は立ち上がり、イスにかけていたコートを掴んで。
 逃げた。










 誰にも会わないように見つからないように、いつも通らないような道を駆けて、息が切れて、立ち止まった。胸に手を当てて、目を瞑って深呼吸をすれば、耳が冷たくなってしまっているのを感じた。
 空気に触れている肌は冷たいのに、火照っている体。背中が汗ばんで気持ち悪い。そこへ後ろからの寒風に髪がなびいた。ふと、背後の気配が気になって、振り返りたい衝動に駆られる。けれど、振り返って確認するには少し怖くて、でも、やっぱりどうしようもなく気になって振り返る。セピア色とコンクリイトで彩られたくすんだ町並み。そこには誰もいなかった。安堵と同時に止まっていた涙が溢れた。整えようとしていた息が再び乱れそうで思わず息を止める。けれど、それは逆効果で、苦しくて息を吸った時、嗚咽が零れた。自分のひどくみっともない姿に余計に涙は止まるところを知らなかった。
「さなえちゃん?」
 びくりと肩を震わせて、いつの間にか落ちていた視線を上げれば、
「どーしたの?」
 驚きながらも微笑を浮かべたスギくんの相棒がいた。



「はい、どーぞ!」
 手渡してきた缶ジュースを受け取り、掌が温かくなるのを感じた。両手で包み込んで、何の缶ジュースか確認する。ロイヤルミルクティー。
「甘いの苦手なんだけど?」
 知っているでしょう?と目で訴えれば、
「ああ、ごめん。こっちだよね?」
 差し出してきたもう一方の缶ジュースを受け取る。分かっているなら最初からこちらを渡せばいいのに、きっと彼はわざとやっているのだろう。先ほど受け取ったほうを彼に返して、再び中身を確認する。ミルクシェーキ。しかも、ホット。
「最低ね」
 本音がぽろりと口から零れていた。絶対零度の批判の眼差しで彼を見やれば、悪戯な笑みから思わず噴き出してしているところだった。缶の角で思いっきり殴りたくなったけれど、そんな事をする訳にもいかないし、そんな事をする気力もないので、ため息を吐いた。
「いや、ホントごめん。こっちはスギへのお土産でそっちは僕の。で、これがさなえちゃんの」
 笑いながらの謝罪には、全くの効果が無いということをこの人間は知らないのではないかと思わせるような口調で、今度はミニペットを差し出してくる。胡乱気に見つめて様子を窺っていると、今度は本当。と、にっこりと微笑まれた。その笑顔は少しだけスギくんと似ている。受け取り確認すれば、今度は確かにお茶だった。
「よっ、と」
 彼はスギくんのお土産にと買ったものは焦げ茶色のショルダーバックにしまいこんで、私の隣に並んだ。背中を壁にもたれさせて、二人佇む。
 駅の近く、人通りを避けて壁にもたれて、喧騒に包まれる。
 あちこちに忙しなく行きかう人々を眺めていると酔いそうな気がしたので、視線を下げて薄汚れた灰色のコンクリイトを眺めた。隣の彼は何も言わずにミルクセーキを飲んでいる。想像するだけで胸焼けしそうなものを彼が平然と口にしていることに、私は今更ながら驚き、呆れながらも、漂ってきた仄かな甘い香りを嗅ぎ取った。その甘い香りのイメージはりえに似ている。やわらかくて、かわいくて、あまい。いかにもな女の子。私が演じてようやくなれる憧れで大好きな彼女の、イメージ。
 誰もが心に暗がりを持っていることぐらいは知っているつもりで、もちろん、りえにも当てはまる事は分かっているのだけれど、私には彼女のその暗い部分ですら純粋なものに見えてしまう。それは恋の盲目にも似た感情で、嫉妬にも近い。
「ね、それ飲んだら?」
 冷めちゃうよ。と付け足して彼が言うけれど、私はお茶に視線を移しながらも構わずに思考を続ける。絡まりかけた糸を解くように、自分に問う。
 なぜ私は逃げ出したのか。
 なぜ私は泣いてしまったのか。
 なぜ私はりえに謝りたくないと思ったのか。
 一つずつ答えるためにゆっくりと考える。輪になったり玉になっている糸を一本の真っ直ぐなものにしようと考える。焦らずに解いていく。
 逃げたのは自尊心が傷つけられるのが怖かったから。演じている自分を知られていることが酷く恥ずかしくて滑稽に思えて、居ても立てってもいられなかったから。
 同時に、分かっていてくれた事がとても嬉しく感じたのも事実。偽りを演じる私を知ってもスギくんは笑って傍にいてくれるのだろうと思えたから。
 そして、最後の問いで、最初の躓き。
 答えは複雑そうでいて、実に単純なことに過ぎなかった。見つめていた掌のミニペットが教えてくれていた。
 好きだから困らせて嫌われたくなかった。幼く拙い必死の自衛。
 馬鹿馬鹿しい。
「いただきます」
 言って、私はペットボトルの蓋を捻って開ける。口付けて一気に半分ほど飲み干せば、体の中に温かいお茶が通って行くのを感じた。それは満たされる思いに少しだけ似ている。
「ぉお、男前だねぇ」
 感嘆の声を漏らして楽しげにこちらを見やる彼に、やっぱり少しだけスギくんの面影を見出して、
「…嬉しくないわ」
 それでも、ため息混じりに返して、お礼は言わない。それは私は彼を困らせてもいいと思っているからであって、自衛の遠慮を必要としない、愛情とは遠い関係だからだ。そう、彼はあくまでも。
「ま、でも、元気出たみたいで良かったよ。さなえちゃんがそんなんじゃ、僕がつまらない」
「なによ、それ」
「張り合いがないってことさ」
 にんまりと笑む。そして、もたれていた壁から離れて背を向けた。
「じゃあ、またね」
 雑踏に紛れながら背を向けたまま手を振って、彼は改札に向かう。途中でゴミ箱を経由して歩きながら、ふと腕時計を見る仕草をする。きっとこれから仕事なのだろう。スギくんのスケジュールを思い出して、駅の奥に消えた彼の背を見つめる。恋人の、親友の、ライバル。そう、好敵手。借りが一つ出来た気がして少しだけ癪だけれど、いつかきっちり返そうと心に誓う。そう考えた自分が少し可笑しくて微笑む。そして、静かに目を瞑れば、彼らの音が耳にふわりと蘇った。様々な音の混ざる喧騒に負けず、思い出す音はどこまでも悪戯で優しい音。彼ら自身の音楽。

 残ったお茶を飲み干しながら、今度はわがままも言って困らせてみようと思った。 
 好きな人をもっと信じてみようと思った。



























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