鼻腔を満たす匂いは酷く甘い。
甘く甘く、とろける匂い。
病的なまでに甘く、彼は思わず眼を閉じた。








『 berry berry strawberry 』









「器用だね」
ぽつりと、ごくごく自然にレオは作業を続ける手を見つめながら呟いた。
きれいな手を見るのは好きだ。手フェチという訳でもないけれど、どうしてか手を見てしまう。今、目の前の手は包丁でがりがりと板チョコの塊を削っている。それがはらり、はらりと花のように散って、銀のボールに沈殿していく。
もう、結構な山が出来ている。
「そう・・・っスか?」
「うん」
頷いて、手元を見つめる。見つめ続ける。少し大きくて、温かそうな手だ。指も長く整っていて、どことなく優しい感じがする。そんな手で、彼は料理と音の両方を作りだすのかと、思い至って、ああ、そんな感じの手かもしれないと、思って。でも、もう一つの事を思いついて、ああ、本当にこの人は凄いなぁって、なんだからしくない事を思った。
お母さんの手。なんだよね。
ぼんやりと、手から顔へ視線を移し、思う。言葉にはしない。
だって、きっと何か言えば笑顔で返すから、言わない。彼の笑顔はあまり見たくない。誰にだって好印象を与える、あまりにも真実を隠し切ってしまう、笑顔。本人にさえも感情を隠してしまう、笑顔。誰かと同じような。
はっきり言って、レオはアッシュの笑顔が嫌いだった。
レオは真剣にチョコを削り取っていくアッシュを見る。机に突っ伏しているために、表情が下からよく窺える。がりがりと、こそげ取る音が、空調の音と混じる。アッシュは黙々とチョコをこそげ取っていく。甘い匂いが漂い、レオの周りをこれでもかというほど取り囲んでいる。
ちらりと、長い前髪の下から赤い瞳が覗く。一瞬、息が止まった。
見事に赤い色。
そんな色は、見たこともない。
ああ、そういえば、兎はカラコンだった。
擬似品。
そんな事が今になって分かる。
同じ色が皿の上で山をなしている。大きくつぶらなイチゴ。赤く甘い、イチゴ。それをひょいと摘んで口に放り込む。舌で抑えただけでそれはあっという間に形をなくしてしまった。
「すっぱい」
舌に妙なざらつきを残しながら、イチゴはあっさりとレオの腹に収まった。すっぱい。目の前でイチゴを掻っ攫ったのにもかかわらず、アッシュはそれを咎めもしないで、少し困った風にして言う。
「レオくんはいつもイチゴより甘いもの食べてるから」
なんで、だろうかな。
レオが不意にそう思い始めたころ、アッシュは言った。確かにイチゴなんてそんなに食べない。食べないけれど。
はやり、すっぱい。
「じゃあ、アッシュはイチゴすっぱくないの?」
「・・・すっぱいというか、イチゴは甘酸っぱいって言うんスよ」
言われてみて、そういえば、そうかと、思えないでもなくて。でも、そんな事よりも、なんでだろうと、思う。
「アッシュにとってすっぱいのはなに?」
問えば、彼の手が一瞬、逡巡するかのように止まる。触れた部分のチョコレートが緩く溶ける。
「レモンですかね」
「なぁにそれ?極端すぎだよ」
「そうっスか?」
「そうだよ」
他愛無く笑って、でも、ああ、本当になにをしてるんだろうか。
アッシュは最後の塊に止めを刺した。ごとりと、それ以上削ることの出来ない小さな塊がボールの上に君臨する。
そのボールにプラスチックのヘラを入れて、机の上のカセットコンロに乗せる。なべの上、銀のボールは湯に浮かぶ。火がつけられる。
「レオくんは甘いのに気付いてないだけっスよ」
囁くように静かに、まるで言う事を惜しんでいるかのように言われて、レオはそうかもしれないと、思う。
けれど、やはり、言わない。
言えば彼は苦笑するだろうから、笑顔を作るだろうから、言わない。いってやらない。
そんな風に誤魔化されて堪るもんか。
先刻から、ずっと笑顔を必死に作ろうとする彼へ、レオは何もしない。
ただ、もう一つ、イチゴを摘む。
口に含んで噛み潰すと、口内に汁を撒き散らしながら、イチゴはやはり。
「すっぱい」
舌に妙なざらつきを残す。それは種子で、イチゴの赤さが眼に染みて、もう一つ食べてみたけれど変わらない。
「すっぱい」
呟けば、彼は少し困った風に。
「そんな事ないっスよ」
アッシュもまたイチゴを一つ口に放り込んで、少しだけ困った風に言う。
笑わなかった。
とろんと、熱にチョコが甘くとろけていく。
 
 
 
     *

 
 
「ふぅん。・・・で、帰ったの?」
「そう、お叱りを受けて早々にお帰りになりました」
「カワイソ・・・」
笑みを堪えきれずにスギは声を出して笑い、目の前の赤いイチゴを摘んで口に放る。レオはその一部始終を眺めながら、ボールの中のチョコをヘラでくるくるとかき回す。それを見て部屋に充満したチョコレートの匂いにスギはため息を吐く。
明日になってもきっと収まらないだろうな。
憮然としながら焦げ付かせないためにチョコをかき回し続けるレオを見て、スギはもう一つと手を伸ばし、今度は一口サイズに切られたバナナを食す。
甘くておいしい。
「で、もしかしなくてもこれが今日の夕食?」
「何か文句ある?」
「ちょっと勘弁って感じかな」
苦笑いして、レオの正面のイスに腰掛ける。アッシュが座っていた席だ。無意識にレオは眉を寄せてしまう。
それに気付かないわけもなく、スギは意外そうな顔で、おや。と眼を丸める。
「まぁ、でも」
そんな顔をしておきながら、スギは構わず続ける。彼は続けて言う。
「たまにはありかな、とか思っちゃいました」
「それでよろしいのだよ」
レオが間髪いれずに答えて、二人は苦笑った。
そして、レオはもう片方の手に持っていた銀色の鋭いフォークでぶすり。イチゴを一つ刺し、チョコの海にダイブさせた。これでもかというほど浸して、とろとろとチョコを滴らせながら、それを慎重に素早く口に突っ込む。チョコが口内に満ちて、レオは思わず顔を綻ばす。
甘いというのはこういうのを言うのだ。イチゴが甘いなんて世の中間違ってる。チョコのもたらす至福にはまる相棒を呆れるでもなく見つめて、スギもレオの手順に習ってチョコフォンデュを味わう。
ぶすり。どぼん。ぱく。
レオが意固地になったようにイチゴを貪るのとは逆に、スギはバナナをゆっくりと食べる。本当に食べやすい大きさだなぁと感心したりする。三つ目を口に放り込んでから、スギは席を立った。チョコとバナナの甘みで口の中が満たされれば当然、飲料が欲しくなる。
率直に言うと気持ち悪くなった。
甘いばかりも考え物かな。思いながら食器棚からグラスを取って冷蔵庫へと歩む。
はた、とそれが止まる。
「・・・そういえば、りえちゃんが明日会いたいって言ってたよ」
行動を再開しながらスギは続ける。甘い香りで満たされたレオを顧みることもなく。
「君明日オフでしょ。りえちゃんもオフだから、午前中にカフェにでも誘いなさいね」
グラスに何か飲料を注ぎながら、スギは言った。とくとくといい音がしていて、レオは思わずアルコールが欲しくなる。
「そういう君はぁ?さなえちゃんと会うんでしょう」
いひひとやましい笑みを零しながらレオが聞く。けれどその答えはあまりにも意外で。
「明日は僕も彼女も仕事です。それに今日会った。もう貰ったよ」
何を?
と思わずバカな質問をしそうになって、レオは慌ててイチゴに噛り付いた。
なにしてんだろ、ほんと。
そうこうしているうちにスギが元の席に座る。片手に無色透明の水をたゆたわせながら、レオの真正面に座る。
そこで、レオは気付く。だからフォークを加えたまま、発音も怪しく聞いてしまったのだ。
「っていうかさ、なんでりえちゃんに会うのが午前なわけ?意味わかんないんですけど」
途端、眼に見えてスギの眼が丸くなる。そして嫌な笑みを浮かべ、いや、嫌ではないけれどそうとしか形容できない笑みを浮かべて、彼はさらりと言ってしまう。
「午後は僕との時間でしょ」
周りの不必要な音が消えて、一瞬頭が真っ白になる。
ああ、もう、くやしいじゃないか。
「・・・そうでした」
諦めにも似た声音で言ってのけて、せめてそう言ってやって、レオはまた悔し紛れにイチゴへと噛り付く。スギは満足に笑んで、意地悪にもまだその口から要らぬ言葉を紡ぎだす。
「そういえば、さ」
「まだなんかあるの?」
剣呑に答えたレオに苦笑して、スギはレオの眼をまっすぐ見据えて言う。
きっと、わざとだ。
「アッシュってレオといる時はあんまり笑わないよね。嫌われてるの?」
冗談めかして言う口には、笑み。見つめる瞳の虹彩は、変わらない。きっと、こんなの全部わざとだ。
「・・・それ頂戴」
「はいどうぞ」
眉を顰めたまま、レオはスギに手を差し出し、スギは苦笑のままグラスを手渡す。
半ばやけになって、レオはグラスの中身を一気に飲み干した。嫌がらせにもなりはしない事なんて分かってはいるけれど。
最後の一滴を口内に押し込んでから、妙に沁みる液体をそのまま無理に飲み込んで。
「・・・っ、これ」
「そう、レモン水」
知らずにいて、思惑通り驚いたレオを見ながら愉快そうにしてスギが言うものだから、やはりレオはやけになって次はイチゴへと手を伸ばす。この部屋に来たときから変わらず、芳香に匂いを漂わせる果実へ残酷にも歯を突き立てる。こんなすっぱいだけの果物が果物だなんておかしい。レモン同様だと思い込んでいる、それの味を確かめるように舌に乗せて。
ほんと、なにやってんだろ。
レモンのすっぱさの後では、それは本当にそうとしか言いようがなくて、本当に一瞬でもチョコよりそう思ってしまうなんて、なんて不覚なんだろう。
 
―――レオくんは甘いのに気付いてないだけっスよ
 
そうして噛み潰したイチゴは淡く甘みを残して、咽の奥に消えた。
でも、やはり、そう言ってしまうのはどうしても悔しいので。
「・・・すっぱい」
レオはまた同じ言葉を繰り返した。








Sour or sweet?

















for鈴羅様。
2003.蒼鳩 誠











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