『 never 』









 昼食を摂って、それからそのままリビングに居座る。窓の近く、部屋の隅、傍にそびえる大木のおかげで、余り日光の差し込まないそこにロッキングチェアがある。ユーリはそこへ腰を落ち着ける。手に持った真新しい文庫本をそのイスの上で開く。けれど、その体制のまましばらく、彼は少し離れた食卓を見やる。そこにはまだアッシュもスマイルも居て、一人は食器を片付け、台所とこことを往復しているようで、もう一人はテレビに噛り付いて、忙しないもう一人には目もくれない。夢中になって画面を見つめている。常と変わらない。そんな昼だ。それを快とも不快とも感じず、ユーリは雑音に耳を澄ます。食器のぶつかる音、高音の普段なら耳に障るような音と、忙しない足音、テレビの音声と黄色い声、イスが軋む音が少し。
スマイル、イスにちゃんと座ってください。……ちょっと聞いてるんスか?聞ぃいてぇるよ。だったらちゃんと座ってください。う〜ん。こら、聞こえてても、ちくわじゃ意味ないっス。う〜ん。もう、テレビ消しますよ。…ごめんなさい。それでよろしい。
珍しく犬が勝ったのを見届けて、ユーリは本に視線を戻した。ゆっくりと背もたれに体重を乗せて、ぎぃ、とイスを軋ませる。あまり揺れないように体の体勢を整えて漸く、彼は物語の一ページ目を捲った。



少しずつ音が少なくなって、やがて静謐が部屋を満たす。それは眠りに似た様で、彼は知らずに回顧する。

眠りにつく。それは決まって冬だったような気がする。しんしんと雪が降り積もり、大地だけでなく音までもが雪の下に埋もれていく。自らもその内の一つなのだなと思って、棺桶の中で静寂を知る。音は無い。雪の降り積もる音だけが聞こえてくる。音は無い。一つも音はなく、耳鳴りには程遠い静寂。やがて、覆い隠す雪の音さえもゆっくりと流れる雲よりも遅く遠ざかり、ゆっくりとゆっくりと感覚が眠っていく。視界は既に闇の中、音はなく、雪の降る音だけが響いて、感覚はゆるく棺桶の中の闇に溶けていく。
音は無い。それなのに降り積もり重なり大地を隠して音さえも吸収していく白い雪の音だけは耳の奥に響いて、鳴り止もうとしない。それがなぜなのか、すでに考える事をやめてしまった自分には知る由もなく、しんしんと降り積もる音だけが、眠りの闇へと落ちるその瞬間まで自分の鼓膜を震わした。
闇は二百年という年月をたったの一瞬で過させたが、闇の中でたった一つ思ったこともあった。その時は、そうなのだろうと考えていたのだけれど。



ふわり、と香った甘い匂いにユーリはその長い睫毛を持ち上げる。軽い倦怠感が体を満たしていたので、自分が眠りに落ちていたことを知った。それでも膝の上に乗っている本の間にはしおりが挿まれていたので、思わずふふふと自分の事ながら笑った。呼応するかのように、ちらりちらりと陰影が揺れ、彼は窓外を見る。大木の枝葉が風に揺れたようだった。
ユーリは一度強く瞬くと、部屋の遠くにある大時計を見た。長針は九、短針は二と三の間、やや三よりにあるので、眠っていた時間はそんなに長くないらしいと分かり、彼は静かにイスから立った。本をそこへ置き、大きく伸びをする。力を抜くのと同時、息を吐き出して、とりあえず鮮明になりだした意識のもと、彼は甘い匂いを再度嗅いだ。
ふむ。時間も頃合だ。
小難しく考えるまでもなく、彼はすでに知れている匂いのもとへと足を運んだ。



台所に足を踏み入れば、犬は何か作業をしながらユーリにもうすぐですよと声をかける。何がもうすぐなのだと分かりきった事を問いはせずに、ユーリは綺麗に整頓された台所を見渡す。犬は何かを切っている、さくりさくりと音がまな板の上で踊っては消え踊っては消え、している。その隣のシンクには何も浸っては居らず、それはおそらく何かを作っている間、片手間に洗ってしまったのだろう。食器乾燥機の中にそれらしき物が入っている。犬らしいな。思って次は机を見れば、何やら見慣れぬ物が置いてある。銀のボール、泡だて器、牛乳パックの上だけ。そんなアンバランスなものが机の上に鎮座しているのだから、ユーリは思わず首を傾げてしまう。
近づいて、その『牛乳パックの上だけ』を手に取る。すれば、パックの中で液体がたぷんと波立ったのが分かった。
「あ、それ、ホイップクリームっスよ」
開けてボールに入れてくれると助かります。続けざまに言って、犬は作業に戻る。振り返りすらしないことに何の不和も感じず、ユーリは興味本位に言われたことを実行してやる。
口を開けてボールの上で傾ける。すると、とろりとした液体が銀色のボールの中で白い溜まりを作る。全て注ぐ。それでも見た目通りたいした量はなく、大きなボールの半分も満たせてはいない。けれど、ホイップクリームと言ったからには、これであの甘い生クリームを作るのだろう。牛乳となんら変わらない、少しだけとろみのある液体は、ゆらゆらとボールの中で揺れている。
その白い液体に、ユーリはそっと指を入れ、付着した白を舌で舐め取った。
「こぉら」
「不味い」
「そりゃそうっスよ。まだ砂糖も何も入れてないのに」
いつの間にか作業を終えた犬がユーリの傍に立ち、子供のようなことをした彼を咎めるでなく苦笑している。それはどこか楽しげだ。
犬はユーリの手からボールを取ると、近くに置いてあった泡だて器を手に取る。それを見て。
「それで?」
泡立てるのか。と言外に言う。犬はええまぁ体力だけはあり余ってるんでね。皮肉でなく答えて、しゃかしゃかと作業を開始した。ふぅん。言ったが泡立てる音に掻き消されそうな声量だったのでユーリの声が犬に聞こえたかどうかは分からない。ユーリはやはりそんな事を気に留めず、近くのイスに大人しく座り込んだ。大きな褐色の犬の手。それを不思議そうに見つめながら、クリームが泡立つまでの間を過す。



ちぃん。
レンジが鳴って、アッシュは一瞬微笑む。スポンジが焼けたっスよ。問うてもいない事を答えて、ちょうど出来上がった生クリームを最後に一混ぜすると、そちらに向かう。振り返り様、表情もなくユーリを見つめる。
「つまみ食いしちゃダメですよ」
言ってオーブンの横に吊るしてあるミトンを掴んで、オーブンを開けた。中からいい匂いが漂う。アッシュはそれを取り出して型を取ろうと、ユーリに背を向けた姿勢のまま作業をする。
ユーリは時間がかかりそうだなと思って、視線をアッシュから生クリームに戻す。そして迷いもせずに、指をボールの中の泡だった生クリームに差し込んだ。ぺロリと舌でなめる。ねぶって跡形もなく指から口へ運んでしまうと、カン、と高い音。スポンジの丸い型が取れた音。
ユーリは三度瞬いて、それから指を入れた後を消すために、泡だて器を掴んで適当にかき混ぜた。そして何事もなかったかのように居住まいを正す。
アッシュはその直後、半分に切ったスポンジを乗せた皿を持ち、ユーリに振り返る。皿を机の上において、先刻と変わらずボールを見つめるユーリを見る。そして、
「スマイルみたいな事しないで下さいよ」
「うむ。甘いな」
「そりゃそうっスよ。生クリームなんスから」
苦笑した。



降り積もる雪。
冷え切った闇の中で、ただその音だけが震えるように響くから、きっと私は。私は降り積もる雪に埋もれてゆくのだね。降り積もる、際限ない時間に埋もれてゆくのだね。
白く埋め尽くされて、後には蒼然たる雪原だけ。

確かにそう思っていたのだ。



散らかった、散らかりきってどこにも足の踏み場のない室内。その騒然たる光景に、ユーリは露骨に眉を顰めて見せると、足元に転がっている様々なものを無視して歩を進めた。がしょ、がさっ、がろん。一体何が転がっているのか、そんな事を気にする訳もなく、ただ足を取られるような不様な事がないように注意を払い、部屋の中央、天蓋付きの寝台まで辿り着く。窓から明りが入ってきていて、部屋を、特に寝台を照らしている。その大きな窓まで、誰かが通った跡が残されている。道が残されている。アッシュに違いないだろう。ユーリは風に揺れる遮光布を一瞥すると、また視線を寝台の上に戻した。乱れて外れかけたシーツの上、薄めの掛け布団が何もない空間で緩やかに上下している。
「…スマイル」
呼びかける。次いで布団を引っぺがす。
「…ぅんんん」
うめき声、シーツの擦れる音と皴。体を丸めたのだろう、スマイルは姿を消したまま現れようとしない。もぞもぞ。取り上げた布団を探して手が彷徨い、見つからないとシーツを掴んで強引に引き寄せた。動きはそこで止まる。起きる気配はない。
「…起きろ」
一連の動作を眺めてから言って、ユーリは透明なスマイルに手を伸ばす。適当に掴んで引っ張って揺する。かくかくと、彼のか細い、それでもユーリよりはしっかりした体が動くのを振動で感じて、それでもスマイルは姿を現さず、起きようとはせず、揚げ句。
「あと十分…」
きっと毎朝アッシュに言っているのだろう言葉を零す。それにユーリは呆れ、大きなため息と苦笑を漏らした。こんな時、普段浮かべない苦笑を浮かべた。そして、手を離す。掴まれていたスマイルの体は支えを失って再び寝台に沈んだ。古く錆びつき気味のスプリングは大袈裟に軋む。
「…ん、ぅんんん。…………?」
ごそごそと音がして、気配の位置が変わり、シーツの皴が幾重も増える。差し込む光に影が出来、その容態が上体を起こしたようなものなので、きっとシーツの上に座り込んでいるのだろうと思う。ユーリは視線を僅かに持ち上げる。眠た眼を瞬かせるスマイルの姿が、姿が見えずとも浮かんだ。
「目が覚めたか?」
「……ん?ゆぅり?」
「お茶の時間だ」
「ん、分かった…」
「………………」
「…………………」
「…おい」
「…………………」
「スマイル」
どうやらシーツの上に座り込んだ体勢のまま再び眠りに落ちたらしく、返事はない。静かな寝息が規則的に聞こえる。ユーリは姿を現さないまま眠り続ける透明人間に、二度目のため息をついた。
まったく器用なことだ。
階下ではアッシュが新作のケーキと紅茶を用意しているというのに。
思って、甲斐甲斐しく動き回るアッシュを想像する。苦笑を零す。そして、ユーリは先刻の言葉をふと思い出した。

『スマイルみたいな事しないで下さいよ』

うむ。確かにそうだ。
どこか納得したような、開き直ったような顔をして。突然、ユーリはそこにいるはずのスマイル目掛けて、勢いよく、抱きついた。

「ぅわ!?何事?」
スプリングが激しく軋む音と地面が揺れる感覚。それに驚いて、霞んでいた意識が現実に引き戻される。瞬時にしては何が起こったのか分からず、スマイルは慌てて体を起こして周りを確認しようとするが、体にのしかかる何かに、それは阻まれる。不思議に思って。けれど、視界いっぱいに広がる天蓋と、その端に映る銀糸、それから、耳をくすぐる柔らかい声に、事の次第を把握した。
「ユーリ?」
「目が覚めたか?」
「うん」
「お茶の時間だ」
「分かった。すぐ行く」
答えど、耳元でくすくすといつまでもユーリは笑っていて、自分はベッドに押し倒され、抱きしめられたままなので。
「…で、どうしたの?」
ようやく現れた透明人間は困惑気味の声音で訊いた。



雪に埋もれゆく。
そのことを悲しいと思わず、恐れすら抱く事無く。
むしろ、安堵すら感じ、享受しようとしていた。
甘受、しようとしていた。



「……それなのに、私は今ここにいる」
先刻の名残りで、ユーリは今だ寝台に横たわっていた。スマイルは起き上がっていて、今は寝台に腰掛けて、僅か、彼に背を向けるようにしていた。ユーリは気にする事もなく、燻ぶったような色の天蓋を見上げて、呟いた言葉に目を瞑る。長い睫毛が、頬に影を落とした。けれども、彼の唇は笑みの形をとっている。
「不思議だよ。とても不思議だ。雪の下に埋もれているはずの私が、真っ白な雪原の上に立っているのだから、不思議でたまらない」
目を閉じたまま、彼はふふふと柔らかに微笑んでみせた。その振動でスプリンがが静かに軋む。きしきし、と聞こえぬ程の音で揺れている。
ユーリは窓から差し込む太陽の光を瞼の裏から感じて、ゆっくりと目を開いた。そこには変わらずに天蓋が見え、けれど、太陽の白い光がユーリを照らして、僅かにその光景を霞めさせた。先刻までまったく感じなかった光の眩しさに、ユーリは彼が立ち上がったのを知る。静かに顔をそちらに向ける。髪が頬にかかる。スマイルは窓に背を向け、こちらを向いて立っていた。
「…私の足跡が残っているんだ。雪原の上に。振り返れば、私とお前とあいつの足跡が残っているんだ。白い雪の上に、ずっと一緒に」
「こんな風に?」
スマイルは言って、足元に転がっていた何かを蹴り上げた。がろん、がしゃん。音を立ててそれはどこかにまた転がる。ユーリは上半身を起こして、スマイルの示す先を見やった。
そこには、先刻自分が歩いた道と、朝アッシュが通ったと思しき道、それから、今しがたスマイルが作った道が、ガラクタの合間に出来ていた。
ユーリは一瞬だけ目を丸くすると、眉を寄せて可笑しそうに苦笑した。スマイルはそれに応えるように微笑むと、寝台に一歩一歩近づいていく。
「どうして私は眠りから覚めたのだろう。どうしてあの時に目が覚めたのだろう」
呟いた言葉はぽろりと落ちて、スマイルの部屋のガラクタに埋もれていく。スマイルはそれを軽く蹴り上げると、寝台の傍に膝立った。そして、ユーリの目に視線を合わせて、挑戦的な笑みを携えて言う。
「分かってるくせに」
「そう思うか?」
「…言わせたいの?」
「どうだろうな」
同じような笑みを返し、ユーリは解けて長く伸びているスマイルの包帯に指を絡めて、またふふふと笑ってみせた。スマイルはあれま?と目を丸くする。余りにも平生と違う彼に少しだけ戸惑う。けれど、嫌だとは決して思わないので、スマイルは、まぁたまにはいいかもね。言って微笑みユーリのさらさらの銀糸を撫で付けた。いつもしている皮手袋ではない、彼の細い掌で撫でられたので、窓から差し込み光が眩しいので、ユーリは思わず瞼を下ろした。そこには、あの闇とは違う仄明るい薄闇が心地良く広がっている。
「…君を待っている僕がいて、君と逢うべき彼がいて、君が僕たちと逢いたいと願ったから。そうじゃないの?」

「………そうだといいな」

ふわり、と窓から柔らかな風が吹き込んで、スマイルは心地良さに目を細め、微笑んだ。
ユーリは目を瞑ったまま肌に風を感じて、静かに呼吸を繰り返す。



風に紅茶の匂いが漂ってきていて、彼の耳元で、目を開けて、と囁いた。



























 forはいち様
 03.10.03 蒼鳩










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