『 ナイトメア for a vampire 』










何もない空間をただひたすらに走る。

息が切れて肺が悲鳴を上げるほど必死に走り続ける。咽が擦り切れて呼吸を荒く繰り返すたびに痛むけれど、そんな事を気にしている暇もなく、ただひたすら。
背の羽を使った方がずいぶんと早く移動できるはずなのに、決して彼はそうしようとはしない。失念しているのか、あるいは故意か、それはまったく分かりはしない。ただひたすら、走り続ける。

彼は走りながら気付く。闇。闇の中を走っているのだ。
汗で額に張り付いた前髪を右手で乱暴に掻き分けて、音も響かない闇を走る。疾走する。その足音が響きそうであるのに、全く反響しない不思議。そのせいで際立って聞こえる己の呼吸音が耳につく不気味。それに僅かイラついて、けれど、構っていられないと走り続ける。

質感のない現実味の薄い空気を、短く吸って吐いてを繰り返し、軋みだした足を懸命に前へ動かす。疲労からかそれは思った以上に上手くいかず、抗うかのように強く一歩を踏み出せば、弾みに汗が目に入り、沁みた。
途端気をとられて足が絡まり、受身すら取れないまま地面ともつかない真っ黒な地へ強く転がり込む。強打した体に息を詰まらせて、一瞬の間呼吸が出来なくなる。徐々に伝わる体の痛みに、僅かうめいて、それでもまた走り出そうと伏せていた顔を上げる。
その頬に一陣の風が吹きつけた。
地に伏す彼の頭をゆうに超える長さの草がざわめき、次いで木々の葉が擦れ合う。それが夜空へと静かに響いて、やがて風は凪ぐ。
静まり返った森の中、訳も分からず、けれど彼はとりあえず痛みの消えた体を完全に立ち上がらせる。現状を把握しようと辺りを見回せば、見知った空気と色合いが視界を埋め尽くしていた。
高い山々がなだらかに連なる遠景と、新木と古木が入り混じる豊かな森は彼の城の領地。今彼が立っているここは、森の木々をそこだけくりぬいたような緑の広場はになっている。見覚えはないが、ここも森の一部だと疑うことなく知れる。
開けた天空からは月光が淡く差し込んでいて、闇の中で青々とした草がそれをさもあたり前のように受けている。
呆然とそれを眺め、とにかく、と彼がそこから動き出そうとした瞬間、森の端から騒々しい気配を感じ取って、反射的に身構える。
風もないのにざわざわと草の擦れる音と、何かを必死に叫んでいる声。それが徐々に近づいてきて、刹那。
ざ。近くの木の葉と枝が大きくしなって、そこからまるで闇を切り取ったかのような外套を纏うその人。赤い羽根を広げる銀糸の麗人が飛び出し、彼の傍へ優雅に降り立つ。彼は立ち尽くしたまま、間接的にしか見たことのない己の姿を直視した。
けれど、麗人の伏せられた瞳の先、彼に気付いている様子はなく、長く伸びた髪を吹き始めた風に遊ばせて、静かに笑みを浮かべた。
「ユーリ!!」
彼の最も近しく愛しい二人の声が名を呼んだ。反射的にそちらへ振り向いたが、二人の視線は、傍に悠然と立つ銀糸の麗人、紅翼の吸血鬼へと向けられていた。
獣道すら通らず、本当に森の中を突っ切って来た二人は、木々の伸びた枝に体中を傷つけられ、あちこち血が滲んでいる。その赤さがいやに目について、彼は避けるように視線を己に向ける。その先で自分は酷く落ち着いた微笑を作っていた。
「ねぇ、どうして?どうして……」
一歩進み出て、糾弾しようと言葉を吐き出すように言うが、青髪の彼はその次の言葉を言わない。いや、言わないのではなく、言えないのだ。どうしてもそうは思いたくない。決してそんな事はないと、思いたくて口に出来ない。
苦悶するその様子を見て、吸血鬼は楽しげに笑う。そして、

――キキタクナイ

「…殺そうとした?」
くすりと笑いながら言う。その言葉にその場に居る誰の目も見開かれる。
「どうした?そう言おうとしていたのだろう?なぁ、スマイル」
呼ばれた彼の肩がびくりと滑稽なほど震え、彼の握られた拳も小刻みに震えていた。スマイルはそれを抑えようとさらに強く拳を握る。
吸血鬼はより一層笑みを深くして、ざわりと吹き抜けた風に髪をさらわせる。なびく銀の髪が月光と相成って冷たい色を瞳に映り込ませる。
同じように風に髪をさらわれた彼は、目の前に立つスマイルを見つめた。もう一人の自分を凝視する彼の体にある傷は、枝による裂傷だけはなかったのだと、気付いてしまって、何によって付けられたものかを痛々しいまでに現している傷を見た。
白い包帯を真っ赤に染め上げている、首についた二つの傷を見た。
「お願いだから……否定して。意思に反してやったんだって言ってよ」
震える体を制して、スマイルは一歩一歩、吸血鬼に近づきながら言う。心の底からの懇願を、希望を託して。
聞きうける吸血鬼の顔からは少しずつ笑みが消えていく。冴えた冷たい表情が惜しむらく事無く露にされる。
 「お願い……だから…」
必死に訴える瞳はどこまでも悲しみに澄んでいて、スマイルの一つだけの瞳からは僅か涙が滲んで、彼は堪えるためにか、見ていられないからか、俯く。
空気はしんと静まり、やがて風がまた木々をざわめかせていく。
誰にも知られずその光景に眺める彼の心と同じに。
そして、冷徹な吸血鬼は月光の元、柔和に微笑んだ。空気は緩く暖かのもに変わる。
白磁のような美しい手が目の前のスマイルに差し出されて、その頬へ優しく添えられる。ゆっくりと顔を上げたスマイルの隻眼が、同じ色の紅い瞳とぶつかって、
「……すまない」
愛しいものを抱きしめるようにして、スマイルの頭へ両手を絡ませる。身長差のため、ゆっくりと下から。耳の金のピアスに触れ、青い髪を柔らかく撫で、そして優しく頭を抱いて。
同じ場所にゆっくりと、躊躇う事なく牙を沈めた。
嗚咽のような喘ぎが静寂に響いて。
ゆっくりとユーリの腕の中に崩れていくスマイルは。
「ユゥリィ…」
血と共に吐き出された名前と、頬を伝った一筋の涙。そしてそれらは青々とした草の上へ沈まった。
光を失っていく瞳と、合わさるはずのない彼の瞳とが合って、彼の心臓は大きく音を立てて脈打ち、スマイルは彼を見つめたまま緩く、緩く息絶える。
彼は信じられるわけがないその光景を見つめて、光を失ったその瞳を見つめ続けて、目が乾いて視界が滲む。これは何かの間違いだと、自分はこんな光景を知らないと頭の中で思っても、自分の垂れ下がっている手が先刻のスマイルのように震えだすのを自覚して、けれど身動き一つ取れやしない。
「ユーリ」
呼ばれたのは自分ではない。分かっている。分かっているのに肩を不様にも震わせて、それはまたスマイルと同じ反応で、彼は視線を声の方向へ縋るように送る。
唇を深紅に染めた吸血鬼は声に伏せていた目線を上げて、歓喜と悲哀とを混ぜたような酷く混沌とした瞳を向けて、
「なんで……」
泣き声とも取れる声で目の前の美しい吸血鬼に問うて、近づいて首へ伸ばされる腕を振り払いもしない。どうなるか分かっているはずなのに。一瞬にして生を奪われると知っているはずなのに。

――イヤダ

「アッシュ……すまないな」
太い褐色の首に白い指が這い、その下にある動脈を一撫でする。腕を頭の後ろに回し、容赦なく、牙を剥き出して噛み付いた。
引きつったような声がアッシュの口から零れ、体温は急速に低くなっていく。命を吸われるかのように体から熱は奪われていく。
けれど抵抗すら見せずに、彼は全てをこの美しい吸血鬼にまかせて。
命が消えるその刹那、アッシュの口から最後の言葉が紡ぎだされて、しかしそれは音にならず、静寂と共に闇の中へ沈んでいった。
傍観する彼だけが唇の動きで言葉を知ってしまって。
そうして月光の下、森の中、存在するのはユーリ独りきり。
一人は困惑と悲しみに満ちて、もう一人は至極嬉しそうに微笑んでいた。


『あなたがしあわせであるのなら』


耐え切れずに目を閉じた。
全ては闇に掻き消える。音すらも気配すらも。けれど。
目に焼きついて離れない瞳。声にならなかった言葉。微笑んでいる自分。全てが。全てが。全てが彼を責め立てる。
――しらない。私はこんな光景を知らない。こんな事を望んでいない。あれは私じゃない。私なんかじゃない。違う。違う違う違う。
瞼の裏の闇の中、彼は叫ぶ。
必死で首を振って否定する。。けれど反抗するように瞼の裏にまでその光景は映り込んで来て、彼はまた耐え切れずに目を開ける。
その先に待っていたのは始まりの闇。








「呼べば応えてくれるだろう?」
響いたのは己の声であって、そうでなくて、私はもう一人の自分に振り向く。そこには闇の中に座り込んで、膝にスマイルとアッシュの頭を乗せ、静かにその頬と髪を撫でている自分が居た。膝の上の二人は安らかな顔で、一見すれば眠っていると思わせるような顔で横たわっている。先ほどの姿のまま。
白く長い指が二人の髪を優しく撫でている。愛しむように触れている。酷く柔らかく微笑んで、囁く。
「分かつものならば、せめて私の腕の中で」
――違う。そんな事思っていない。
目を細めて、
「お前達は私を拒まなかったから…。スマイル、アッシュ」
己の手で二人の命の光を掻き消したというのに、酷く酷く幸せそうに笑う。闇の底の存在である私が、二人を殺してしまった私が、どうしてそんな聖母のように穏やかに微笑を浮かべられるのだろう。これは私じゃない。私じゃない。
――お前は私じゃない。私はそんな風に笑わない。
音の響かない闇の空間。立ち尽くす私はユーリに聞こえるはずもない非難を浴びせる。私がしたんじゃない。お前が二人を。お前は私じゃない。私はそんな事を望まない。そんな風に笑わない。お前は私じゃない。だから。だから。だから。私がしたんじゃない。私が。わたしが。
「…呼べば答えてくれるだろう?」
ふと、二人に触れる手が止まり、同じ言葉を繰り返した。微笑が緩く解かれる。伏せていた瞳が持ち上げられ、ゆっくりと顔を起こす。同じ色の、同じ瞳。まったく同じはずのそれが私に向けられて、
「お前は呼ばないのか?」
射抜くような瞳と、言葉に痛みを感じた。心臓が音を立てて軋む。
そして、気付いた。途方もない闇の中で私は。
「…ほら、呼んでいるよ。応えてくれるまで、呼んでいるよ」
差し伸べられる掌に、気付いた。





一度大きく車体が揺れて、ユーリは弾みに目を覚ました。薄闇が周りを包んではいたが、車道に沿って点在する街灯が薄く車内を照らしては去っていく。その光を遮る対向車もなく、後続する車もないので殊更車内は仄明るい。静かだ。そして、その馴染んだ空間を初めて見るもののようにゆっくりと視線を巡らし、見慣れた車の内装を呆然として眺めた。車内の、それでも夜の冷えた空気を吸い、吐息を零す。それが僅かに響いて、運転席から声が掛けられる。
「起きたっスか?もうすぐで着くんでもうちょっと辛抱して下さい」
言葉にようやく頭が働いて、収録帰りだという事を思い出させた。アッシュの運転する車で居眠りをしていた事を知った。そして。
「…ん」
ユーリの肩口で青色の髪がもさりと動く。眠りから覚めてゆっくりと戻って来た感覚が、彼の肩に凭れ掛かる存在を教えた。
ゆっくりと視線をそちらに落とし、ユーリは自分の肩に頭を乗せたまま先刻の己と同じように眠っているスマイルを見た。薄く唇を開けて、呼吸を繰り返している。そして彼はその姿と、触れる温度に胸が締め付けられて。
もう、何も考えられず、ただ嬉しくて、抱きついた。
首筋に腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。溢れてきた涙に視界は滲んで、彼は声を出して泣いた。
「…ユーリ!?」
ちらと後部座席を見やって、彼の様子を知るとアッシュは慌ててハザードを出して路肩に車を止める。その間にぐっすり眠っていたはずのスマイルも目を覚まし、目の前の状況に驚きで目を瞬かせた。
シートベルトを外し、後ろを振り返ってきたアッシュと目が合って、
「…どしたの?」
同様に驚いているアッシュに言葉を投げかけるが、彼も分からないと首を振った。だからスマイルの分かった事は、ユーリの泣き声で目が覚めた事と、アッシュも自分もなぜユーリが泣いているか分からない事。それだけで、どうして。なぜ。と疑問は浮かんで来たけれど、
「ユーリ…」
吐息を零し、スマイルは微苦笑して、彼の頭を優しく撫でた。ユーリの涙に濡れる自分の頬はどうにも切なくて、彼を宥めるように繰り返し撫で付ける。アッシュも遠い座席から手を伸ばし、彼の銀糸の髪に優しく触れた。



 

照らす光が強いほど陰は色濃く。
優しさに触れるほど失う痛みは痛烈で。
包み込んでくれる温度が温かいほど孤独は体を蝕んだ。

夢の中の私。
あれは失う痛みを恐れた私。
独りでいても寂しくなかったのは彼らと居る幸せを知らなかったから。
独りになるのがこんなに辛いのは彼らを失う怖さを知ったから。
けれど、やがて来る未来は残酷。失うことは必然。
そして、孤独を恐れる余り、闇に呑まれた。
夢の中の彼らは、触れてこようとした手が死を携えていたのに、躊躇わずにその手を迎え入れた。最期の時まで、闇に呑まれた私ですら拒絶しなかった。
そして、同じ闇に沈んで逝こうとした。

けれど、気付く。

必死に伸ばされた掌は、自分たちの死という痛みと苦しみを与えてなお、幸せを望むように、光を求めるように、凍えた私に触れ続けている事に。
夢の中の私。闇に呑まれた私。あれは確かに私だ。いつかああなるかも知れないという危惧から生まれ出た、暗い闇を纏うた私の姿だ。
けれど、闇に呑まれたはずの私ですら、言ったのだ。
恐れるな、差し伸べられる掌が、私の名を呼ぶ声が、触れていてくれる温かい温度があるのだと。





信じよう


と。













「ユーリ」
「ユーリ」
アッシュとスマイルの声が優しく耳に触れ、頭を撫でている手はどこまでも温かかった。ユーリは涙を流し続けながら、嗚咽にかき消されないように、二人の名前を必死に呼び返した。















私がその手を掴もうとしている限り、決してそれは離れていかないのだと信じる事が出来るように、なった。






























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