『 ジューン・ブライド 』











 「ねぇ、結婚しましょう」
 開口一番に彼はそう言った。面と向かって言うでなく、かといって、照れなど微塵も無く、花束の一つも用意すらせず、自身の楽器のチューニングを行いながら、果たして愛の言葉とは思えない風で言った。
 だからと言う訳でもないが、返答に黙す。壁に凭れて、そんなに広くはない部屋を見渡し、その中に彼の姿を認めて、ユーリは静かに黙す。それでも彼は表情の一つも変えない。眉一つ動かさず、ただ黙々と自分の耳と機械で、確実にチューニングを行う。返答を気にする素振りすら見せやしない。先刻言った言葉がまるで初めから無かったかのように、耳をぴくりと動かして、音を聞く。
 タン。タン。何度か叩いて、機械と楽器を睨んで、そしてまた。タン。タン。タン。回数が増えたばかりで、それ以外は変わらず、ただ音を確かめる動作を繰り返す。
 ユーリは瞳にその姿を惰性に映して、ゆっくりと視線をまた部屋中に気だるく巡らす。部屋のほぼ中央に黒いマイクスタンドがすらりと、まるで枯れ木のように突っ立ててあり、そこからは長いコードが地を這う蛇と同じように伸ばされていた。そして、遠くも無く近くも無い壁に、紅いベースが今にも倒れそうな危ういバランスで立て掛けてある。それは、言うまでも無くスマイルが。
 先を思い出せば、彼の耳にスマイルの好きなアニメの主題歌が聞こえた気がして、ユーリは苦笑する。それから、伏せていた目をふいに上げて、彼のドラムと彼を赤く照らしている窓を見た。赤く染まった黄昏時の空が窓枠で四つに分けられて覗く。ガラス越し、ゆったりと風に運ばれていく雲ですら、酷く赤く。ユーリは一頻りそれを眺めると、空を行く雲と同じ速度で目線を落とす。その先、長く伸びる彼の影ですら、酷く赤いような心持がして、ユーリは頬にかかる鬱陶しいばかりの髪を耳にかけた。そして、気付く。
「…ああ、ジューン・ブライドか」
 なるほど納得した。そう言わんばかりの口調で言って、けれど彼は変わらず反応の一つも返しはしない。気になるわけも無く、ユーリはくすりと笑って、
「なんだ、女々しいじゃないか」
「…ほっといて下さい」
 言って、叩く。
 タタン。タン。言葉はそれきりで、また黙々と作業に戻る。
ユーリはふっと吐息で笑って、彼もまた窓に視線を戻した。垣間見える黄昏は、彼の見えない、視界に入りきらない所までずっと続いている。 もしかするとこの世界全てが赤く染め上げられているのではないかと、錯覚してしまいそうな程広く、切り取られた窓枠の世界ですら、雄大に悠然として空は広がっている。
 不意に、とろりと夕日が山の向こうに溶けていく、その残光に目を刺されてユーリは目を細めた。赤い光が目を焼く。これ以上私の目を紅くしてどうするのだ、と馬鹿なことを思って。ああ、けれど。
「ねぇ、結婚しましょう」
 見計らったように彼が言うので、ユーリは背を壁から離し、座り込んでいる彼へ歩んだ。近くに立てば、ユーリの影が彼の手元を暗くする。けれど、それでもこちらを見ようとしない。
 だから、ユーリはしゃがみ込んで、彼の頬に手を添え、無理やり上向かせる。彼は不快そうな素振りも見せず、膝立ちになっている分高い、ユーリの瞳をようやく見上げた。ユーリは彼の長い前髪を事も無げに両手で掻き分けると、露にされた同じ色の瞳を見つめた。窓から差し込む赤い陽は、彼の瞳を殊更赤くして、その光の眩しさに彼は瞳孔を細くする。まるで獣のそれと同じような瞳に、ユーリは喜色満面の笑みを浮かべて。
 噛み付くような口付けを、した。




 長いのか短いのか分からないような時間、絡められていた舌が名残惜しげに離れていき、唾液が糸を引く。陽光にそれは酷く鮮明で、陶酔にも似た眩暈が、心臓の鼓動を速くさせた。
 閉じられていたのか、ユーリの長い睫毛がふわりと揺れ、何よりも、ずっと紅い瞳が彼の瞳を貫くように見つめて。
「悪くは無いよ。…けれど、今はまだ此れで我慢しろ」
 言って肩を軽く押すと、ユーリは何事も無かったように彼から離れて行った。そして、数秒経った頃に、スマイルが部屋の扉を開けて入ってきた。見計らったのはユーリなのか、それともスマイルなのか、それは彼には全くわからない。ユーリはスマイルを一瞥すると、軽く笑った。スマイルはギャンブラーの興奮が冷めぬ声音で呼びかける。
「さぁさ、練習再開だヨ〜」
「…都合のいい奴だ」
「いいじゃんよぉ、別にサ」
 返された言葉にユーリはいつものように苦笑して、マイクスタンドの高さを調整する。スマイルもベースを肩に掛けて、コードを繋ぎなおす。
「………アッシュ?」
 フロアタムにチューニングの機械を付けたまま茫然としている彼に、スマイルは首を傾げる。その声に、彼は夢から覚めたような顔をして、
「あ、はい。今用意するっス」
 慌てて言葉を返すと、いつもの機敏さで持って、淡々とドラムをセットし直した。








 ふと見やった窓の外、太陽が山向こうへ消えた余韻として、空に藍と赤が溶け合うように混ざり合っていた。













 いつかの空もきっとこんな風なのだろう。





























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