『 雨声 』









鉛色の雲が空全体を覆っている。湿気の多い空気が肌に纏わりついてくる。じっとりと静かに汗が滲み、肌を伝った。
庭先のほぼ中央に立ち尽くして、彼は天空を仰いで目を瞑る。ゆっくりと湿気で重たい空気を吸い、吐き出す。幾度かそれを繰り返してから、またにび色の空をその双眸に映した。
風はなく、雲は同じ場所に留まっている。それと同じように空気もまた淀んで濁り、地上へと沈殿していく。
纏わりつく空気に、吸い込んだ空気に、肺の中から徐々に体を重たくされて、空気と同様に自分も堕ちていきそうになる。
高温多湿。
体温が低い彼ですら、その白皙の肌に汗を掻いている。伸びはじめた髪が汗で肌に張り付いている。じっとりと。
彼はもう一度気だるそうに目を閉じると一言、誰に向けるでもなく零す。
「不快だ」
息をする事さえ面倒で適わない。いっそのこと、止めてしまいたいくらいだ。そう、いっその事降ってしまえばいい。そうすればこの煩わしい気温も少しはマシになるのではないだろうか。瞼の裏でそう考えて彼は、それでも重たく湿気た空気を吸う。結局はそんなものだろう。
目を閉じたまま天を仰ぐ。
停滞した世界に彼は佇む。



何もかもが止まっているような感覚に陥る。
停滞する空気、響かない音、曖昧な光。
目を閉じているだけだと言うのに、そんな眩暈にも似た感覚が体を満たす。体の境界線が曖昧になって空気に溶けていく。底なしの闇へ堕ちながら見る夢のような蠱惑を感じる。心地良くて蕩けていきそうだ。
一時でも長くこの幻想のような感覚に浸っていたい。思わずそう願った矢先であった。



「ユーリ」
水が急速に冷やされて氷になるようだと思った。曖昧になっていた境界線が、その一声であっという間にはっきりと際立つ。余計なことをしてくれた。
「ねぇ……わざと?」
声が近くづく。苛立つ。どうしてこうも居て欲しくない時に限って現れては邪魔をするのだろう。
「風邪ひくよ」
空を向いたままのユーリの顔を幾筋もの雨粒が流れていった。雨が降っていることさえ気付けないで居たのに、どうしてこうも余計な事をするのだろうか。
雨に冷やされた体を感じて、ユーリは瞼の裏でごちる。
降る音さえ不確かな細い雨はあの鈍色の空からユーリたちの元へと注がれている。その雨の温度は夏のそれらしく温かい気がする。生暖かく肌に纏わり、地表へと滑り落ちていく。それなのに、どうして自分の体はこんなにも冷え切っているのだろう。
「ね、中に入ろ」
雨に濡れた髪が首に纏わりついている。
ユーリはゆっくりと空に向けていた顔を下ろした。去年ばっさりと切ったはずの髪が頬にも張り付く。気持ちが悪い。鬱陶しい。
気だるげに瞼を持ち上げる。
視界は相も変わらず灰色の空気を漂わせている。それは世界がまるでモノクロになって色あせたような気がして、やる気も意志も何もかもが怠惰のうちに堕落する。
花壇の中の葉が一枚、雨で跳ねる。
視界の端でそれを捕らえたユーリは目玉だけを動かして、そちらを見やる。大きな葉を幾重にも重ねた上に、何十何百の小さな花が幾つかの塊になって乗っている。それはとうの昔に枯れ果てていてもおかしくはない季節の花のはずだった。どうしてこんな夏の盛りまで咲いているのだろう。思ってユーリは雨に打たれる。
ああ、そうか。今年は梅雨が長引いたのだったな。
思い至って、その青白い紫陽花を目の中に映りこませる。今ユーリの目に映る限りでは青い花しか見当たらない。それは酷くバランスが悪く見える。紫や赤のものもあれば美しかろうが、青しか見つからない。それは酷く不健康だ。しかし、青というのは見た目も雰囲気も涼やかだった。雨に濡れているという事がさらにそれを思わせる。触れれば冷たいのだろうか。触れずとも己の方が冷ややかだと知れているのに、そんな夢想を思い描かせる。それほどに青白い。青白い紫陽花。
「ユーリ」
呼ばれ、雨に滲む視界の中でようやく彼へ振り向いてやる。その先にはやはりあの青白い男が立っていたので、ユーリは確かめようと手を伸ばす。彼の低い体温を、また確かめようと頬に手を伸ばす。紫陽花の夢想を確かめるように触れて。触れた指先へ伝わる温度に、馬鹿げた幻想だったと思い知らされた。

彼は伸ばされたユーリの手を引いて、その濡れそぼった体を抱きしめる。雨が彼の温度を伝える媒体となって、ユーリの体はいつもよりずっと鮮明にそれを感じ取る。じんわりと優しく彼の体温がユーリの体を浸していく。なぜだろう、先ほどと似たような眩暈を感じる。溶けていきそうになる。
頬に張り付いた髪を彼が優しく耳にかける。ユーリは緩慢に視線を上げる。その先の彼の顔も雨に濡れている。いつも横に流している髪は下りている。もしかすると自分より長いのではないだろうか、思わせるくらい彼の髪は下りている。その毛先が肩に届いている。鎖骨に触れている。
彼は冷え切ったユーリの唇に指を這わせた後、自分の唇を合わせた。触れるだけ。それだけのキスを落として、その薄い唇は離れていく。けれど体は抱き締められたまま。
ユーリは与えられる温度に戸惑いを隠せず、自分と同じはずの紅い色を見つめた。
そして、確かめるように名前を。






唇に残された熱がぴりりと痛んだ。

























浅茅梗也様へ相互記念
03.8.7 蒼鳩











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